ごあいさつ

ご挨拶
 
南無妙法蓮華経
高速で駆け抜ける様に感じる時間や、夜空に広がる星の輝きや、潮騒とその香りや、量ることの出来ない全てに、私の命がほんのわずかで、瞬きすら満たない時にもならない、数にもならない、ガンジス河の砂の様な命が、あと少しだけこの地球に住む事をゆるされる間の事。その事が頂いた今の命。
そんな、ほんのわずかの間の事なのに、民が汗水垂らして働いて納めた紙を湯水の如く使って、山を削ったり、森を壊したり、美しき珊瑚の海に赤土を流し込んだり、飛んで来るかもしれない爆弾のために、当たるかどうかもわからない撃ち落とす機械を買ったり、不良品の飛行機を買ったり、そんな戯れを繰り返す。

たとえば、隕石だっていつ飛んで来るかわからない。
でっかい隕石が飛んできて、海や大地にめり込んで地殻津波がおきたらとか、超新星爆発の限り無い放射線が地球に降り注ぐとか、そんな事を考えたりする事もできるだろう。そんな一貫の終わりもあるというのに。

日本全体の海岸にへばりついている、数々の原子力発電所は、いつかまた事故を起こさないとも限らないとか、人口減少とか、放射能とか、自死、交通事故、殺人、強姦、詐欺、泥棒、物言わぬ信仰宗教、国の中が問題だらけで、ずーといつになっても終わらない問題をほとんど解決しないまま、また次の問題が起きる事とか。

どれをとっても、全く他人事で、いかにも尤もらしく、貴方の為だと言いながら、我が執着を離れずして誰の為でもあらず、只、我の為。
選ぶ手の数のみに魂を放り投げ、我が魂のみならず、身も心も土も民も、全て丸ごと、紙切れにすり替えて、愈々、命の水までも。
交差する価値の時代の分岐点。
あと何度か、時代の危機を乗り越えて、本当の意味で人類が、それぞれの命の目的を果たし生き抜いて、一旦輪廻の輪から飛び抜けて、名のある如来になる遥か彼方の今その時に、本当の原因と、本当の結果と、本当の国土を始めて知って、信じて生きる事ができるその日まで、繰り返し繰り返し、南無妙法蓮華経をお唱えして、生まれ変わり死に変わりして居りたいと思っております。

天鼓山第19世
妙恩日艸
合掌禮拝

縁起

当山は初め番神堂、次に祖師堂といいました。今を去る350年前、人皇112代、霊元天皇の御世、寛文年中に、勝山武兵衛というお方が「三十番神」を祭ったのが始りといわれております。
 古書には「三十番神之社ハ。法花屋布之内也。寛文年中二。勝山氏之武兵衛ト云者。本村従ヨリ。初メテ東ノ野ニ移ル。此ノ者日蓮之教ヲ信而社造リ。番神像ヲ安置ス。其後人多ク随而。遂ニ一里ト為ル之移ル。是レ法花屋布也。延享年中ニ。番神堂の社内ニ。艸堂ヲ建ル也。」とあります。
 但今、本堂の前にある石燈籠は、延享2年(1745)艸堂建立の時に立てたもので、今より268年前の事であります。
 
延享2年10月25日、寺社奉行の高橋喜正氏の指令を得て、「番神堂」と公称しました。
村人には番神宮と呼ばれ、五明村の神人間宮権太夫なる人が祭典を行っておりました。後に佛道に改まり、その檀徒の信仰は篤く、村の氏神の如く崇拝されました。
爾来、40余年の星霜を経て、天明4年(1784)に、堂宇が風雨のため大破。その後再建され100有余年がたった頃、時代は明治に移り、百物の革まる時、廃仏毀釈による神仏混交はしては成らないとの政府の趣意により、「祖師堂」と称するようになりました。
明治24年、濃尾大震災により三十番神のお堂が倒壊しましたが、番神像は一体も、紛失も毀損もされなかった事は誠に不思議なことでありました。其の後明治42年に今のお堂が完成し、昭和17年3月31日に「昭蓮寺」と改め今に至っております。

南無妙法蓮華経

立正安国、世界平和

脱原発を祈ります。

 

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