妙法五字の受持と経済の諸問題

南無妙法蓮華経

 

妙法五字の受持と経済の諸問題

 

ミルトン・フリードマンによる新自由主義経済の蔓延は、あのベトナム戦争の60年代より、更にその加速度を増して、全世界をその毒が覆い尽くした。

長い鎖国を経て文明開化から始まった資本主義の波に乗り遅れた日本は、そのあまりにも大きな波の渦の中に、すっかりと飲み込まれた。そして、あっという間に、その波間に泡立った、バブルの中に我を失い、泡沫に享楽し、バブルが弾けそして、悪夢を見た。その泡沫は幻想に変わり、人口減少という現実から目を背け、有りえもしない経済成長という名の下に、新たな妄想と悪夢を追い求め、奈落の底を目指して更に加速度を増したように弾けはじめた。

 その歪みとそこから生まれた妄想と悪夢は大量の国債と大量の借金となって淀みに溜まった。金儲け至上主義の波はいつしか飽和し、デフレの大津波として押し寄せてきた。そして、その物質飽和状態から新たな兵器を生み、宗教的思想やイデオロギーやナショナリズムを逆手に取り、金儲け一点の軍需産業という鬼神を生み出した。

 その軍需産業が生み出した殺戮とその屍の山は無数の怨霊を生んだ。

そして、決してそこにと止まることもできない諸行無上の因果の波に逆らい、なんとしてもそこに留まろうと、見えざる手をあの手この手で掴みとろうと、金融緩和を重ねに重ね、遂にその道さえ閉ざされようとしている。

 悪夢を悪夢と思うこともせず、妄想と幻想の酒に酔い今なお悪夢を追い求め、一体全体、人類はどこへ向かおうとしているのか。当に、一闡提の怨霊の増幅は、止まる事を知らない。

 

あらゆる命も、この丸い地球に生まれ落ちた時、もう既に、すっかりと満足している。それを一大事の因縁という。その一大事の因縁である、仏種の開発こそ生きる命の目的である。

紛れもなく我身は、本仏釈尊と同体であり、その我身中の本仏の誓いと願いに今こそ、その耳を方向けなければならない。我己心中に久遠に広がる本仏の誓願と十界互具と一念三千の大曼荼羅の大宇宙に生かされている事を受け止めなければならない。その事がこの娑婆に生まれたそのただ一つの目的であり、成仏を目指す為にだけ、命は存在する事に気づく道である。その命の目的を、心素直に、ありのままに、すっぽりと丸ごと受け入れる道に出会う為のその道のりは、無数に広がる縁と、分かれ道の連続である。

その険しい道のりを、苦しみは苦しものまま、楽しみは楽しみのまま、すべて真正面から受け入れる道が仏道であり、妙法五字を受け持ち、信じ唱えていく道である。

そこに、我、己心中の本化の四菩薩は、手を取り、まろぶその身をお支え下さるのである。

 そう信じ歩む仏道の一歩は、ただそこに既にある成仏という無上の道へ至る道でり、本当に全て正解で、何の誤りもないその道である。

 

人はこの世に、過去生の懺悔と、未来世の誓いと願いを持って生まれ落ちる。その魂魄に誓願した、その人にしか待ちえない、誠に尊いオリジナルで、唯一無二のその命の歩む、たった一つのその道を、もう既に、一寸の狂いも無く歩んでいるにも関わらず、様々な欲望と目と耳と鼻と舌と身と意に、瞬時に飛び込んでくる、あまりにも多くの多角的情報に、心奪われ、右往左往してその道を見失うのである。

 六根の情報とそこに生まれる煩悩のノイズの中に生きながら、自らの使命を見失わないように生きるにはどうしたらよいのか。

それが、「いのり」である。それも、金持ちになりたいとか、病気が治るとか、争いがなくなるとか、現世の願望を叶える為の「いのり」ではない。

 更には、この目を背け、うんざりする様な苦しみ多き現実から、何としても抜け出したい、神様仏様、この救われようのない苦しみからどうか楽にして下さい。と祈る「いのり」でもない。

 法華経の「いのり」は、貧乏は貧乏のまま、病気は病気のまま、争いは争いのまま、その如何にも、享楽を求める人間の価値を超えた、諸仏の真の願いに出会う「いのり」である。

決して、幸福を製造するような「いのり」であってはならない。

決して、現実から目を背け、後生の浄土を祈る「いのり」ではあってはならない。

ただ一人瞑想し、仏語に耳を傾けず、静かに単座する事が仏道ではない。

火を焚き、敵を調伏する「いのり」であってはならない。

無戒の末法に於いて、戒律犯さず如何にも聖人の様に生きる事が仏道ではない。

 

 寺院消滅。墓、寺、檀家の三離れが、進めば進むほど、その法華経の「いのり」と自らのお題目の信仰の真の価値を問われる時となる。

 今こそ、真の法華経信仰と真のお題目信心が問われる時である。

 アマゾン坊主でも、タレント坊主でも、なんでもやればいい。

 屍の肉で、我が身を養い、家族を養い、その命の上に、今の私の命があるのだと、小さな額を畳に擦り付け礼拝し、そして、風の前の塵ほどの懺悔の思いを抱き、それも仏と真に受け入れることができたなら、その命の向かう先には、世界の抱える戦争と核兵器と環境破壊と温暖化と貧困と、、、それら、個を超えたより大きな共同体の抱える苦しみを我が如く感ずることのできるはずである。それが「立正安国」の精神である。核兵器も原発も放射能の問題も、沖縄の基地の問題も、全部そのまま、「立正安国」の祈りに繋がるその「度すべき所に随う」種種の法である。

未だ、放射能のまみれた福島の土に帰ることのできない、避難民。

高濃度に汚染された通学路。

人殺しの道具の生産と販売。大事故を起こしたにも関わらず、国外への原発輸出と上関への新設推進と再稼働。

人殺しの稽古場を作る為の、かけがえのない沖縄の自然環境破壊。憲法を違反してまで推し進める戦争ができるようにする法。

すべて、いのちを軽ろんじ、蔑ろにする国政である。

その全てを、唱題への原動力としなければならない。

その国政を諌める精神なくしては、「いのちに合掌」の横断幕も虚しいものとなり、「立正安国」の日蓮聖人の仏法の精神もまた虚しく、根無し草の波状に浮かべるに似るべきものとなるであろう。

 

 70年前、戦争をして、原爆まで落とされて、それでも、悪夢を悪夢と思うことができないまでに、無明の酒に酔い潰れて、我を失い、その忘我の先にある世界は、果たして如何なる闇黒の世界か。

闇が深くなればこそ、そこに輝く一つの光明はより鮮明になり、闇に迷う衆生は、そのわずかな光を追い求めて、漆黒の闇の恐怖から逃れたいと藁をも縋る思いで、その光に集まるであろう。

その光が消えぬよう、せっせ、せっせと薪を焚べるのが私たち、法華のお坊様のお仕事。

お題目をお唱えし、生死に向き合い、久遠の釈尊の本願に立つことができたなら、それこそこの上ない喜びである。

そこに、妙法五字の光明に照らされて、本有の尊形は顕れるのである。

 

あんこくの 世に正法を得たりしと 我御仏は 歓喜せるなり

 

                              妙恩日艸

臨終の事の習い

臨終の事の習い

 

南無妙法蓮華経

 

 

 十一月十二日、旧暦の十月十三日、当山お会式の晩、子と孫に見護られながら、「出ずる息は入る息を待つことなし」とのお言葉の如くその相を顕し、当に「臨終の事」を教示し、お題目の唱えられる中静かに師父が息を引き取った。師父、妙誠院日達上人、その命終までの一端を綴る。

 

『晴天の霹靂』

 師父が肺炎で入院したのは昨年九月十五日のことだった。時を同じくして、境内に繁る枝垂れ桜の太い枝が根元から折れた。翌日、本堂に一匹の鳥が舞い込んで来て堂内を二周半飛んで外へ飛び立った。その翌日には、祖師堂の大屋根の瓦が落ち、秋霖の雨にポツリポツリとタライに落ちる雨音が静かな堂内に響いた。この瑞相が、如何なる意味を持つのか。師父と重ねた。

 師父が、入院してすぐ、肺のレントゲン写真を見た医師から「胃に影がある」と告げられ、その二日後、胃カメラにて、胃を検査した。診断の結果は、末期の胃ガンであった。二人に一人が癌になると言われる昨今だが、今まで一度も大病をしたことの無い師父がまさか癌に侵されるとは、当に青天の霹靂とはこのことであった。その事を母から涙ながらに伝えられたその日から、何をしていても涙が止まらなくなった。天が落ちてきた様な悲しみに、朝のお勤めも、声が詰まってお勤めにならない。後から後から、悲しみが、腹の底から、止めど無く泉の様に涌き上がってきて、止まる事を知らない。止めど無い悲しみと同時に、今までの師父に対する不孝の全てが津波の様に押し寄せきた。何故にこんなにも悲しいのか、その事を考えた。あたりまえの様にそこにいた人が目の前から居なくなるということ。そのことがあまりにも寂しく思えた。一週間後、肺炎が治り一時退院となった師父に、意を決して、今迄の全てを詫びた。心が少し楽になって、悲しみの波が少し和らいだ。今まで、何をあんなにもいちいち拘っていたのだろうと思えた。

 次の正式な検査結果までの間、毎日、暇さえあれば、癌に関するサイトを開いて、手立てを模索した。食事療法に免疫療法、更には漢方や、末期ガンから復活したという多くの人のブログやホームページを寝ずに読んだ。そしてできる限りの民間療法の多くを試すものの、坂道を少しずつ、速度を速めながら転がる様に師父の様態は悪くなっていった。検査結果の出る十月の三日頃に至っては、既に、食事もあまり喉を通らなくなっていた。そして、検査結果を聞くまでもなく、即再入院となった。それから三日後、主治医と面会をした。胃カメラの画像と、CTの画像とレントゲンを見て、何も知らない素人の私にも、その画は一目瞭然で、現実を突きつけられた。何としてでも復活させたいとの思いで抱いていた淡い幻想が虚しく思え、また涙が頬を伝った。手術もできなければ、抗がん剤も出来ないほど、体力も衰え栄養失調になっていた。余命は長くて三ヶ月。それでも、諦めきれない自分と家族の複雑な思いの渦の中で、親子として、師匠と弟子として、その残された時間に、私は何を成すべきかを模索し始めた。互いに口にすることを憚かる様な言葉を捨て身で放った。

 私・「お上人、何処で死にたい・・・?」

 師父・「そりゃ、お寺だわな・・・」

 私・「わかった、お寺に帰れる様に準備するよ・・・」

 そして、ソウシャルワーカーの方に相談をし、在宅で看取れる様、準備を始めた。

 

 

『一筋の光明』

 その数日後、不思議な事が起きた。十月十三日、御聖日の朝、一通のメールが届いた。それは、次の様な内容だった。

 「私の母のことで相談いたします。私の母は五十年近く、創価学会を通じて日蓮正宗を信心してまいりました。創価学会の活動などには参加しておりませんが、ご本尊の前で毎日欠かさず朝晩お経を唱えることが母の心の支えとなっています。しかし、創価学会が二十年以上前に日蓮正宗から破門になったことを、母は最近になって知りました。そのため、創価学会から脱会し、日蓮宗へ改宗したいと言っています。母が申すには、四十年以上前に住職と江南市役所で出会ったことがあり、母はそれからずっと相談しに行きたいと思っていたそうです。一度母の話を聞いていただきたいのですが、お寺へ伺ってもよろしいでしょうか?」

 それは、死を目前に、一筋の光明となった。四十年前に、植えた一粒の仏種が、臨終間際に芽を出した。お題目の光明に照らされて、そこに映しだされた本有の尊形に、止めどなく涙が溢れた。そのことを師父に伝えた。お上人の生き方、間違ってなかった。数ではない、只、一粒の種が救いをもたらした。

 十八日にお寺で、四十余年ぶりの再会を果たすべく十七日に師父は退院した。再会を果たした二人は、当時を思い出し、会話を弾ませた。その会話から「釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候」とのお言葉が心に浮かんだ。何気ない会話と、そこにある何気ない言葉の中にも、仏種は宿る。そう信じて生きることが大切であると学ぶ事ができた。

 縦にも横にも無数に広がる果てしない、縁とそこに織り成される方便の中で僕らは生きる。その遥か昔からの佛縁の一端の結実を見ることができたことを、誠にありがたく思った。

 その後、幾人かの人が、お寺で療養する師父の元を訪れた。そのどれをとってみても、その深き縁と、人と人が、数十年に渡って築き上げてきた強い信頼関係と絆を感じることができた。

 

 

『弔い人の出立点』

 人は一生の間、生まれ持った自らの業と向き合いながら、決して変えられないその人間の本質に翻弄されながら、多くの苦難を乗り超えて、結局最後は、ありのままの自分の姿に立ち返り、そのお役目を全うする。全ての生きとし生けるものは、皆その様にある。あまりにも辛く苦しい困難に出会った時、こんなはずではなかったと思う時もあるだろう。しかし、法華経とお題目には、その困難こそありがたい、困難にこそ法華経とお釈迦さまの御教えであると思わせていただける功徳力が具足する。

 妙とは開なり。

 カッと眼の玉を見開いて、真に生死に向かう時、本時の自分に出会い、これで良かった、生きてるだけで御の字と思えるありのままの命に出会うことができる。それが、お題目様の姿であると、ここに一まず思うことができた。

 『人久しいと雖も百年には過ぎず、その間の事は只、一睡の夢ぞかし』とお祖師様は申される。この世の因果の道理からは、逃れる事はできない。生まれ落ちたその日から、死の保証書を懐に、種々の因縁、種々の譬喩をもって、その命の燈の消えゆくその日まで、三世に渡って網の目の様に果てしなく繋がる縁の中、右往左往しながら執著を離れる日まで進むのである。師父の死によって自らの生に初めて本気で向き合う事ができた。そして、生死狭間に生きる事が凡そ方便であり、それに依って全ては、妙経教示の一刹一塵であると心中深奥に刻む事ができるのだと思えた。僧を志し僅か十年、未熟な自分なりに生死と向き合ってきたつもりであったが、師父の死に「まず、臨終のことを習うて後に他事を習うべし。」のお言葉がこれほどまでに、心に突き刺さった事はない。これでやっと、渡世坊主のお仕事である「弔い人」としての御役目を果たす為の出立点に立つ事ができた様な気がする。

 

 秋霽の 枯れゆく蓮の頭垂れ 実る仏種の久遠成りけり 

 

                            妙恩日艸

 

僕らのアンコクロン

井戸端会議20

 

僕らのアンコクロン。一番問答~二番問答。

 

旅人が来て、嘆いて言いました。大震災から、二年を経ました。その間、各地で、大洪水、大寒波が起こり、インフルエンザが流行り、放射能や黄砂、PM2・5等の汚染は広く海や空気に広がっています。そして、大きな余震は止む事がありません。コンビニエンスストアー等の賞味期限切れの食物は、次々と廃棄されゴミになります。人々は、有り余る食物を食べ過ぎ、様々な成人病に侵され、国中、何処の病院に行ってもそこは、病人で溢れ返っています。更には、百万人に一人といわれる、甲状腺の異常を持つ子供が多くいます。年間に、交通事故死は四千五百人、孤独死は二万人、自殺者は三万人、人工中絶される命は三十万人を超えます。それでも、人々は、我関せずと無関心を装い、カラオケ、ゴルフ、遊園地とレジャーに勤しんでいます。

しかる間、或いは、景気回復の文を専らにしてお金さえあれば、極楽気分を味わえると、満員電車に揺られ身を粉にして働き、或いは、国民健康保険があるから安心と、病院通いを日課とし、或いは、ヨガという呼吸法と体操で心を安定させ、或いは、資本主義は、もうまっぴら御免と、鍬を担いで、自給自足と田舎暮らしを決め込む者もあります。そして、デフレ脱却を願い、印刷機でじゃんじゃんバリバリ、福沢諭吉を印刷しようとする者もおります。

しかしながら、いたずらに心を砕くのみで、何の効果も無く、益々、経済は悪くなり環境汚染は進み、癌患者は増える一方であります。三十年ローンを組んだマイホームの主人お留守のベランダで、悲しく洗濯物が揺れているのであります。夜空を見上げれば、黄砂で霞んだお星様が僅かに光っています。そんな中、お坊様は、金襴緞子の立派な法衣に身を包み、冷暖房完備の葬祭場では、厳かに葬儀が執り行われ、真っ白な桐の棺桶に美しい花で飾られた祭壇は、まるで霊山浄土の様相を呈しています。しかしながら、葬式離れ、墓離れ、檀家離れは益々進み、お寺に来る人はどんどん減っています。天皇皇后両陛下は福島の放射能除染の様子を視察に行かれましたが、作業員と案内人はマスクをし両陛下はマスク無しで視察されるありさまです。仏教も天皇も威力を失い、様々な問題により衰退していく日本の姿は一体どの様な理由で起こったのでしょうか。またどの様な誤りがあるのでしょうか。

主人が答えて言いました。自分もこの惨状を目の当たりにし、憤りを覚え、その災難の原因について深く思い悩んでおりましたが、あなたが、共に嘆かれるので、暫くこの問題について話し合いを致しましょう。そもそも、出家し道を求めるのは、正しい教えによって、悟りをひらき佛に成りたいからであります。しかし今は、神様への願いも叶わず、佛様の御力も現れず、災難はいよいよ増すばかり、これでは成仏どころではなく、天を仰いでは出家の目的が失われたと深い憂いと絶望に沈んでおります。私は狭い見方しか出来ませんが、少しく仏教に尋ねますと、人々は正しい教えに背き、悉く悪い考えを信じている。だから、善い神様は国を護ることを辞めてどこかに去ってしまい、正しい教えを広める聖人も去って、帰ってこないので、その隙に、悪魔、悪鬼が入り込み、次々に災難を起こしているのです。此の真実は、とても重要な事で言わずにはいられない事です。

旅人は尋ねて言いました。近年の国中の災害については、私だけが嘆いているのではないようです。今あなたを訪ね、尊いお言葉を賜ったところ、善神や聖人が去ることで、災いが起こると仰せですが、どのお経文に書いてあるのでしょうか。その証拠を聞かせて下さい。

主人は答えました。金光明経、大集経、仁王経、薬師経には、明らかにその事が書かれています。仏教の道理に暗い人はその事を知らず、科学の力や経済力で自然をも凌駕できると傲慢になり、教えを捨ててしまったのです。

旅人が怒り顔色を変えて言いました。そんな事はありません。震災後、あるIT企業社長の何十億円もの多額の寄付をはじめ、日本各地で被災地を支援する募金活動をしたり、直接現地に向かい、多くのボランティアスタッフが被災地を支援しました。また、三周忌を迎える被災地の各地では、犠牲者の霊を弔う大法要が盛大に執り行われ、多くの参拝者はそのありがたさに涙を流しました。震災に関する事だけではなくこの他にも、多くの日本人は、お塔婆を立て、お彼岸やお盆のお墓参り、先祖供養は欠かすことがありません。毎年大晦日では、除夜の鐘を突こうと多くの参拝者がお寺を訪れます。この様に、仏教の精神は廃れておりませんが、いったい誰が仏教を軽んじたというのでしょうか。その証拠を聞かせて下さい。

 

 

※これは一例です。これからも、立正安国論を通じて読みとる事の出来る三世の諸問題に光を当て向き合って行きたいと思います。

 

戦後70年、広島〜知覧〜の旅2015

井戸端会議19

 

戦後70年、広島〜知覧〜の旅

 

南無妙法蓮華経

 8月15日、お盆の棚経を終えて疲れた様子の父が、ステテコで居間のテレビを見ていた。それは、毎年この国で繰り返される、戦争を振り返る番組だった。今年は、戦後70年の節目ということもあり、どのチャンネルを回しても、その類の特番が組まれていた。父が見ていたチャンネルでは特攻の生き残りのおじいさんが、その当時を振り返り語っておられた。その時、父は、急に僕の方を見てこう言った。

 

「知覧、行ったことあるか?あそこ行くと、ホント、涙がでるぞ・・・」

 

 その言葉を放った時の父の目があまりにも真剣で、今まで見たことない顔つきだった。その場所を思い出すだけでも胸が詰まるのか、なんだか、そんな様子だった。

そんな出来事に心動かされた僕は、知覧に行くことを決めた。

 8月23日午後、子どもたちを車に乗せ出発した。向かう九州地方は、台風15号が待ち受けていた。雨雲はまだ遠く東シナ海をゆっくりとした速度で北上していた。23日は、広島の山中でキャンプをすることにした。到着したのは、午後九時頃、ちょうど西の空に月が沈みかけたころだった。テントを立て、月の落ちた夜空を見上げると、そこには淡く流れる天の川が天ががり、幾筋かの流れ星に感動した。やっぱり、地球は丸く、僕らは、こんなにもちっぽけで、ケシ粒に等しい命。大宇宙の時の流れに比べれば、それは、瞬きにも満たない瞬間をほんのすこしだけ生きている。そんな風に思うとなんとも言えない気持ちになった。それでも、そんなケシ粒にも満たないような地球では、依然として人が人を殺し合う戦争が止むことはない。なんとも悲しい現実である。

 翌24日は、広島の山中から車を走らせること30分。広島平和公園に到着した。そして、原爆死没者慰霊碑の前でお題目をお唱えした。その後、平和記念館を拝観し終えたあと、ちょうどお昼に差し掛かったので、元安川の橋の袂にあるカフェのオープンテラスで食事をした。ピザを食べながら、70年前に思いを馳せた。

 原爆は、この頭上600mのところ炸裂した。晴れた夏の日の朝が、一瞬にして地獄と化した。真っ黒に焦げた死体と、皮膚がただれ剥がれ落ちボロ雑巾のようになった黒焦げの皮をぶらぶらとさせながら、水を求めて歩く人。呻き声や泣き声が溢れ、赤剥けになった死体は、次々と元安川を流れてくる。そう思うとこんなところで、ピザなんか食べてる場合じゃないと思いすぐにそこを後にした。

 戦後70年、世界は一向に武器を捨てる覚悟ができていない。今だ、世界の何処かでは戦争があって、核兵器も廃絶されていない。それに、福島の原子力発電所では大事故がおきて、放射能が沢山漏れて、今でも海に空に流れている。ここで、亡くなった30万の人々に、まだまだ、顔向けできるような真の平和はおとづれていないのが今の世界。まだまだ、こんな世界では犠牲者は成仏することはない。

 翌25日は、いよいよ、この旅最大の難関台風15号との対面だ。九州で台風と交差する目論見でいた。しかしこのまま鹿児島に向けて進んだら、暴風雨の中に突っ込んでしまう。それはあまりにも危険すぎるだろうということで、少し台風の進路を避け、この日は、大分に宿を取ることにした。そして、あわよくば、杵築市の延隆寺のお上人様にも会いたいと思った。お上人様とは学生時代からの友人で、生年月日が同じ、1980年の5月22日生まれなのである。同じ日蓮宗のお寺に九州と愛知で場所は違えど、同じ日に同じ宿命を持って生まれた。なんとも不思議な御縁を感じずにはいられないお上人様である。検索してみると、そのお寺のすぐそばに、良いお宿があり、電話をすると部屋も空いているという。本当は、1年間貯めた500円玉での貧乏旅行は、テントを張っての野営が基本。お宿に一泊は少し痛手だと思ったが、台風だからしかたがない。お上人様に連絡すると、明日は朝から予定があるとのこと、わざわざ、その予定を少し遅らせてもらい会う約束をした。

 翌朝、窓に打ち付ける雨とものすごい風の音で目が覚めた、外は見たこともない雨すじと暴風が吹き荒れていた。朝、お寺に伺う予定だったが、この暴風雨では、外にも出られそうにないと思い電話をしたところ、お上人様の予定は、この台風の影響で大幅に予定変更となったことを知らされた。ちょうどチェックアウトの10時頃には、すっかり風も治まり、お寺に向かうことができた。風神様のお陰で、九年ぶりのありがたい時間を頂戴し、再会を果たすことができた。そして、日本の政治のこと、宗門の現在・未来のこと、お題目をどう伝えていかねばならないのかということ、様々話をした。ここにずっといたい気持ちになったが、そうはしていられない、知覧まではまだ400㎞もある。名残惜しい気持ちで延隆寺を後にした。

 途中、宇佐八幡がそのお寺から15分ほどの距離にあることを聞いていたので立ち寄ることにした。一度は、お参りしたいと思っていた宇佐八幡にお参りできたのも、これも仏のご縁なのか。切実なる思いを自我偈に込めて、天下太平国土安穏を祈りお題目を唱えた。思い新たに、一路、知覧へと再出発。相変わらず、九州自動車道は、台風の影響で不通のまま、下道で八時間あまりかけ、鹿児島県南九州市に到着した。妻も子も寝てしまい静かな車内、風で木々が散乱した台風の爪痕の残る夜道は、長く感じられた。70年前、真っ暗な海の上を一人戦闘機に乗り込み、何時間もの間、睡魔と闘いながら操縦桿を握ったであろう、その時の若者を想った。市内に入った頃には、時計は午前2時を回っていた。しばらくして停車した信号の手前にコインランドリーを見つけ、三日分の洗濯物を洗濯機に放り込み、今夜はそこで車を止め寝ることにしたが、長時間の運転で覚醒した頭では眠る事もできず、携帯で知覧特攻平和会館のホームページをみていた。

 すると、「水曜休み」との掲載があり愕然とした。なんと、26日の今日はその水曜日なのである。一瞬途方に暮れ、僕は何のためにここまで来たのか、頼み込んで無理やり入れてもらうしかないか。いや、なんとしても入れてもらうしかない!と、思ったその時、※印に、「8月は水曜日も休まず開館します」、との記載を見つけ、ほっと胸を撫で下ろした。ほっとしたのか、いつの間にか眠りについていて、朝6時頃、無理な姿勢での車中泊で背中の痛みに目を覚まし、洗濯物を取り入れて、朝の炊事ができる場所を探して市内をうろうろした。結局、これといった場所も見つけることができず、特攻記念会館に向かうことにした。

 看板が見えてきたと同時に、会館に続く坂道の両脇に無数の灯籠がその入り口まで並んでいた。この灯籠が何を意味するのか。物言わぬ灯籠が既に涙を誘った。そして、近くのグランドに車を停め、お湯を沸かし朝食の準備をし始めたころ、雲の隙間から朝日が眩しく照らし始め、子どもたちが順に起きだした。公衆便所に行き歯を磨き、朝食を済ませ会館の開く9時を待った。

そして、その時が来た。

 会館に入るとそこは、壁一面に、特攻で亡くなった若者達の写真で覆い尽くされていた。筆舌に尽くしがたいとはこのことである。その空間に漂う深い悲しみは、あまりにも平和な現代に産まれ生きてきた僕の心を刳った。

 遺書に残された、父、母、兄弟、姉、妹、家族に宛てたその言葉には、深い愛と優しさと、人を思うその思いの深さが満ち溢れていた。そして、自らの覚悟のなさを恥じた。

 この国とそして愛する家族を護るため、命を投げたその覚悟には、様々な思いが満ちていたことだろ。本当は死にたくないとも思っただろう。この国の為に、大切な家族を護るために死ぬのだと思っただろう。はかりしれない、悲しみや苦しみを乗り越えて、それでも自らの死と向き合い、何かを信じてその生命を投げ出した。彼らが信じたもの、それは一体なんだったのだろう。

 

『生もなく 死もなくすでに 我もなし 泣かざらめやも ますらおの道』

 

 こんなにも、清々しい思いで、命を捧げる。

 こんなにも、素直に家族にその思いを告げることができる。

 こんなにも、死を、本当に覚悟した人の生命は輝くものなのか。

 そして、こんなにも、戦争とは悲しいものなのか。

 

 こんな悲しみや、苦悩を二度と味わうことのない世を目指すことが、目的なのか。悲しみや苦しみをありのままに受け入れ、決して、そこで命を投げ出した若者に、ただ憐憫(れんびん)の情を抱くだけではなく、その命がその時選んだ、その道を、心深く大切に受け止め、その思いと悲しみ苦しみを、そのまま、ありのままに、次世代に伝えていけばよいだろう。

 答えは、その心に、どうするべきか、どう生きるべきか、各々の心に、自然に涌き出でてくるだろう。そんなふうに思った。

 

 その後、隣の観音堂にてお自我偈とお題目を上げたが、また胸が詰まった。

 僕は、哀絶の思いにくれていたが、子どもたちはそんなこと関係なしで、元気いっぱいに、特攻隊の銅像の前で水遊びをしてまたもや、泥だらけになっている。本当に子供は無邪気でその姿に救われた。

 そして、併設する公衆浴場へ行った。お風呂からあがり、みんなでアイスを食べていると、老人が次々に出てきた。僕は、その中の一人の老婆に、こんにちは。と話しかけ、特攻平和会館に来た経緯を話した。すると、その老婆は、ゆっくりとした口調で話しだした。私は、その特攻に行く飛行機を手を降って見送ったと、涙ながらに話をしてくれた。もう一人のおじいさんは、その頃のことをよく覚えていると、いろいろお話をしてくれた。終戦間近の知覧の飛行場には、既に飛行機も少なく、上空を飛ぶアメリカの艦載機から、日本軍の飛行機を沢山に見せるため、飛ばない木造の飛行機を並べていて、実に情けない有り様だったという。終戦間近の日本にはもう既に戦う力は残されていなかったのだ。

 そして、1945年8月15日正午、昭和天皇は、ラジオを通じ日本の降伏を国民に伝えた。満州事変から実に十五年もの長きに渡る、戦争の時代に終わりを告げた。

 

 戦争は、ありとあらゆるものを奪う。

 戦争は、なにもかも奪う。

 戦争は、死ぬる勇気を肯定し、生きる勇気を否定する。

 戦争は、すべてを奪う。

 

 広島・長崎で亡くなった数十万の命も、特攻で亡くなった数千の命も、世界で亡くなった数千万の命も、真の意味でその生命の成仏を果たすには、世界から、すべての戦争がなくなり、すべての核兵器がなくなり、すべての軍隊と武器がなくなり、本当の、本当の平和がもたらされるその日まで、僕らの慰霊の旅は終わらない。

 

 僕ら、法華経を信じるものは、いかなる人の心にも、仏の育つ平和の田んぼあることを信じる。その田んぼに、かつて植えられた、その仏の種を、いつしか自らの手で焼いてしまい、もう二度と芽を出すことがないだろうと思われた。その戦乱多き末法の時に現れた一筋の光明。

南無妙法蓮華経。

 そのお題目という仏の種を、心の田んぼの奥深く深く、もう一度植え直し、その種が芽吹き、そして、その白蓮の華を大きく開き咲かせるその日まで、永き万年の旅は続く。

 そして、いつの日か必ず、人々の心に久遠の平和がおとずれることを信じて疑わない。

 

 『大火に焼かるると見る時も 

          我が此の土は安穏にして 

                   天人常に充満せり』

 

 桜島は、その日も真っ白な雲の傘をかぶり、静かに、ただひたすらに、僕らの心を見つめていた。

 

 8月28日、午前1時30分、無事に家に着いた。

 僕の、戦後70年の夏は終わった。

 

 

    哀愍の 念いだけども 足らずして

 

            ただ法華経に まかすのみなり

 

 

気づかねば ならぬ仏の親心

井戸端会議18

 

進藤先生は、毎回〆切ギリギリまで、入稿されない『井戸端会議』にいつも気を揉んでおられたことでしょう。実は今回、どうしても、〆切までに間に合わすことが出来ず、2、3日の猶予を下さいとの電話を致しました。すると、先生は、「貰った電話で悪いんだけどね。今回で一先ず『JYURAN』を一区切り付けたいと思うんだよ。」と申されました。そして、次に仰せになられたお言葉に、思わず驚き笑いがこみ上げてきました。笑いなどというと大変失礼ではありますが、それは、こんな言葉でした。「ちょっとね、もう少し自分磨きをしたいと思うんだよ!」というものでした。私は、考えました。先生の様な、年齢になられても、まだ自分磨きをしたいと思われるのか・・・と驚嘆すると同時に、その『進藤義遠』という人物の、謙虚さとその生き方と、その偉大さに何とも有り難い思いがこみ上げてきたのでありました。斯くして、今回で十八回目を向かえるこの『井戸端会議』も、一先ずの区切りを向かえます。一年半に渡り、お読み頂きました『JURAN』読者の皆様に於かれましては、誠にありがとうございました。そして、何より、ATD研究員として執筆の機会を与えて下さいました、進藤義遠御上人様には、心より感謝申し上げます。

さて、私の担当させて頂いたこの『井戸端会議』では、月日頃、おこる出来事やそれに思いを馳せ、私なりにそこから導き出されるお釈迦様と日蓮聖人のお言葉を綴ってきました。しかし、思い返せば、なんとも浅はかな愚考を巡らしたものだと反省するに暇がありません。東日本大震災から、三年半以上を過ぎ、あの衝撃も薄らぐ今、私たちこの法華経と日蓮聖人にご縁あるものたちは、どのように生き、そして、何を伝えて行かねばならないのでしょうか。今一度、この胸に手を当て考えてみたいと思います。

日蓮聖人の御生涯は、『立正安国論』に始まり、『立正安国論』に終わると言われます。それは、国家を諫暁した書であり、そして、何より、門下に対し最後に伝えたかった書物であります。この深々の意義につきまして、まさに愚禿が論じることなど出来るはずもありませんが、敢えて勇気を出して、その一端に触れたいと思います。

『立正安国論』に曰く、

「世皆正に背き、人悉く悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還らず。ここをもって、魔来り、鬼来り、災い起り難起る。言わずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず。」

(世の中のすべての人々はが、正しい教えに背いて、悪法邪法を信じているため、この国土を護り法を護る多くの善い神様は、この国を捨て去り、正しい法を広める聖人も去って、還ってこないから、その隙に悪魔や悪鬼が押し寄せてきて、次々に災難がおこるのです。言わずにはいられないことであります。恐れなければならないことであります。)

昨年は、二月の豪雪からはじまり、東北・北関東での止まない余震に加え、伊予灘、伊豆での地震、デング熱、広島での土砂災害に、御岳山の大噴火、更には十月八日の月蝕と続き、十一月には、西日本で、「火球」と言われる、眩しく光る大彗星が現れました。まさに立正安国論に説かれる、七難の様相を呈しています。残す所は、自界叛逆難と他国進逼難というところでしょうか。

自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)とは、国内で、内乱が起きること、他国進逼難(たこくしんぴつなん)とは、他国に攻め入られるということで、考えようによっては、既に起っていることでしょうか。

そんな、私たちにとって、命ほど、尊いものはありません。そして、先ずは自分自身が健康で、そして、安全に暮らして行けることをいつも願っています。

しかしながら、よくよく考えてみますと、その命の安全や健康は、個人の住む地域や、国や大きくは世界全体や、地球環境やそういった、国土全体が安全で、安穏でなければ、まことの健康や安全な生活を得ることはできません。

例えば、こんなことがあります。最近は、どこの学区でも入学手続きの書類の中に、その保護者のメールアドレスの記入欄があります。学校は、そのメールアドレスをもとに全生徒のメーリングリストを作成し、台風による休校のお知らせや、不審者の出没といった情報を送信してきます。そんな時、ふと思うことがありました。中でも、「地域に不審者が出ました。それは、こんな風貌で、この様に話しかけてきて、こんなことをしました。」という詳しい情報は、子供を育てる親はもちろん、孫のいるおばあちゃんにとっても、とても心配になる情報でしょう。そろばん塾や近くの公園に遊びに行かせることも不安になります。本当なら子供たちが健康で元気に外に遊びに行くことは、とても有り難いことです。しかし、どんなに健康で元気でも、一人の不審者のお陰でその地域全体が不安になり、子供たちがどこへ出かけるにも心配になってしまいます。

ましてや地域全体、国土全体を不安にさせる様な巨大台風や伝染病、放射能汚染、ここ数年噂される巨大地震、隣国の政治的圧力や武力は、言うまでもなく人々の心の奥底でいい知れない恐怖と不安の種となっていることでしょう。

しかし、科学文明に生きる、私たち現代人は、台風が来れば、天気予報を眺め、毎日その動きや雨量の情報を知ることができます。そして、地震はこの地球を形成する大きな幾つかの地殻の変動によって起きることを知っています。それは、けっして悪魔や悪鬼の仕業でもなんでも無く、私たちの力ではどうすることもできない、実に地球誕生以来の自然現象であり、まして人間の心がこの様な自然現象に関わっているなどとは思ってもみないのであります。

一方、どれだけ科学が発達して、その地震を予測することが出来ても、台風の動きを知ることが出来ても、それによって、人々の不安を払拭することが出来るのかというと、それは疑問です。むしろ、過大な台風情報は、イソップ寓話の「オオカミ少年」の様になりつつあるようにも感じますし、大自然の大きな力の前に私たちはなす術が無く文字通り全てが「想定外」となることは明白な現実的事象として、以前私たちの眼前に横たわっているのです。

そんな中、先日は、鹿児島県知事は、経産省の要請を受け入れ、川内(せんだい)原発の再稼働することに同意しました。未だ収束のめどの立たたない福島第一原発からは放射能が漏れ続け、16万人が住む家を追われ、避難生活を余儀なくされ、更には次々に見つかる子供たちの甲状腺がん、10万年間、安全に保管しなければならない放射性廃棄物の捨て場所すら無いにもかかわらず、その同意表明となりました。常軌を逸したかと思われるこの国は、まさに悪鬼がその身に入り込んでいるかの様であります。一体何に怯えているのでしょうか。

この様に今日本国が抱える多くの諸問題を考える時、全てが経済最優先の市場原理主義社会を目指し、経済的に豊かになれば、人々は幸せになれるとの「信仰の寸心」を今ここで見つめ直し考え直さなければ未来はありません。

仏法による警告とそれに符合する天地の警告。こんな時代だからこそ今まさに「汝早く、信仰の寸心を改めて、速かに実成の一善に帰せよ。」との日蓮聖人のお言葉を噛み締めずにはいられません。

 気づかねば ならぬ仏の親心 ならねば国の 安穏はなし

 

聖人の難 偲ぶ おもいを

井戸端会議17

 

 九月十二日、この日は、日蓮聖人を信奉する者にとりましては、殊更に大切な御聖日であります。日蓮聖人は、鎌倉幕府に、『立正安国論』を奉進されて以来、松葉谷ご草庵の焼き討ち、伊豆へ流罪、小松原での襲撃と数々の難に遭われました。その中でも、文永八年(1271)九月十二日の「龍ノ口法難」は、平頼綱の一行に片瀬の処刑場に連れていかれ、斬首されようと首の座に座られた大難でありました。建治元年に身延でしたためられた『種種御振舞御書』によりますと、「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物、まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面もみへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみたふれ臥し兵共おぢ怖れけうさめて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり或は馬の上にてうずくまれるもあり云々。」(江ノ島の方向から月の様に光った物が鞠の様に東南の方から西北の方角へ光り渡った。十二日の夜明け前の暗がりで人の顔を見えなかったが、この光り物の為、月夜の様になり人々の顔も皆見えた。太刀取りは目がくらんで倒れ臥し、兵士共は怖れて頚を斬る気を失い一町ばかり走り逃げ、ある者は馬から下りてかしこまり、ある者は馬の上でうずくまっている。)と、この不思議により処刑を免れた日蓮聖人は、後に佐渡へ流罪となるのであります。

そして、この大難を境に、一層の法華経の行者の御自覚に立たれるのでありました。後世、日蓮聖人を御一代を伝える時、佐渡遠流前と佐渡遠流後と大きく二つに分けることができ、特に塚原にてしたためられた『開目抄』と一谷(いちのさわ)に移られてからは、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』とは、日蓮聖人の教えを学び行じる上でとても大切な法門として後世の私たちには貴重な示唆を与える遺文となりました。

『開目抄』には、「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑(ねうし)の時に頚(くび)はねられぬ。此は魂魄(こんぱく)佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにをぢぬらむ。」と仰せになっておられます。

この様に、九月十二日は、日蓮聖人の御生涯に於いては、命がけの大切な分岐点となるのであります。

さて、私にとりましても、今年九月十二日は忘れがたい日となりました。

それは、こんな出来事でありました。

今年の春、自坊の参道を出た所にお一人で住む、ある男性がお亡くなりになられました。数年前から持病を煩っておられ、他宗の方ではありましたが、時に病気の平癒の祈願にお越しになれたこともありました。しかし、遂にその寿命を終えられました。お葬式を終え、その数日後、その弟の方がお寺にお越しになられ、兄の住んでいた家をお寺で買い取ってもらえないか、というご相談でした。というのは、その無くなられた男性が住んでおられた家は、お寺の借地に建っていた家で、しかも、平成になってから建て直した家で、外装もまだ新しく、取り壊してしまうには、もったいない、まだまだ十分住める家でした。借地の上に建つ物件ということもあり、そのご相談でありました。相談を受けたものの、住職一人で決めることは出来るはずも無く、総代様に相談するということで、その場の話を終えました。この話を母から聞かされた時、すぐに私は、もしお寺でその物件を譲り受けて頂けるならば、私が住まわせて頂毛穴言うものかと、臆面もなく思ってしまったのでありました。

それには、幾つかの理由がありました。

今の私の住まいは、お寺から車で十分程離れた所にあり、(9年前から住み始めました)お寺の仕事をするには不便を感じながらの生活でした。それに、頂戴した大切なお布施の中から、家賃を払うという、まことに心苦しい借り暮らしで、まさに、現代の渡世坊主そのものでありました。お寺がありながら、様々な理由でそこに住めない自らの徳のなさと、罪深さを感じておりました。そんな思いを払拭しようと、ここから太鼓を打って出かける日々が続きました。地域の清掃や、不燃物の当番にも参加しました。その間、心にはいつも、「即是道場」の文字を念じ、ささやかな御宝前を拵え、迷惑も顧みず、朝夕お参りをしました。時には、太鼓をトントン撃ってお参りをすれば、壁をドンドンと叩かれ、家内と二人で、ご近所様に会えば、太鼓うるさくてごめんなさい、と頭を下げ、時には、上に住む顕正会の御信者の方に折伏され、御祖師様の御曼荼羅様を貶(けな)され、それでもめげずにお題目をお唱えしました。

そんなある日のこと、先に記しましたお話がありました。

もしそこに住まわせて頂けるなら、そんな有り難いことはない、夢の様な話だと思いました。
その後、総代長さまに相談し、その旨をお伝えしました。早速総代会が開かれ、役員の皆様には、すぐにご理解を頂き、話はトントン拍子に進みました。そして間もなく、総代長さまから、こんな話がありました。「お金のことは、心配しなくてもいいですよ。今月、お寺の本堂に掛けてあった、火災保険がちょうど30年の満期になりお金がおりるんですよ。」と、その話を聞いて本当に驚きました。と同時にその金額がなんと、売り主の希望の売却価格とピッタ同じだったのです。こんな不思議なことがあるのですね、と総代長さまとお話をしました。その後、友人の不動産屋さんを介して様々な手続きを経て、売買契約を結ぶ日になりました。その日取りや手続き等、すべて総代長さまに御任せしてありましたので、知る由もありませんでしたが、その契約の日取りが、九月十二日だったのです。

 この借り暮らしの9年間は、本当に色んなことがあり、この地を出て他の土地で、一からスタートしようと本気で思った様な、悔しく苦しい出来事もありました。自分の弱さや不快なさ、罪深さを恨んだこともありました。そんな中、この様なことの運びとなり、一銭の寄付も募ること無く、借り暮らしから一転、お寺すぐ隣に住まわせて頂けるご縁を頂戴できたのです。何とも不思議なことであり、それ以上に何とも有り難いことで、家内を始め家族の者たちとただただ、両手を合わせずにはいられない日々でした。先の住人の男性は、他宗の方でありまして、もともと法華経とはご縁の無い方でありましたが、当病平癒の御祈願のもとに結ばれたお題目とのご縁が、後押しをして下さったのでしょうか。心よりご冥福をお祈りさせて頂きたいと思います。

そして、私の我侭(わがまま)を聞きいれて下さりご尽力頂きました、総代長さまをはじめ役員の皆様、すべての檀信徒の皆様に心より感謝致します。

この九年間に学ばせて頂いた様々な経験を肥やしにすると同時に、日蓮聖人が、怠け者の私に与えて下さった佐渡の地であると心し、生まれ変わった気持ちで精進を重ねていかねばならないと、決意を新たにする今日この頃であります。

 

ようようと 赤くなりゆく 月のぼり

聖人の難 偲ぶ おもいを

えみし釜をおとづれて

井戸端会議16

お盆開けのある日、私は、家族と共に家内の故郷、福島へ向けて出発しました。末っ子の双子が生まれてから、行きたくてもなかなか行けなかった、身延山の御廟所にご挨拶をし、少々寄り道をしながら、東北道を北へ北へと車を走らせました。福島が近づくにつれ、手元の線量計は、0,2~0,4μSvを計測し始めました。地元愛知の実に7~10倍の放射線量です。福島第一原発の大事故から、3年以上が過ぎ、空間の放射線量は以前に比べて大分下がってきたようです。

今回の福島への帰郷には、三つの目的がありました。一つには、事故後、一度もお参り行く事が出来きていない、家内の先祖のお墓参りに行く事。

もう一つは、曾孫の顔をまだ一度も診ていない、曾祖母に孫の顔を見せに行く事。そうして、もう一つは、宮城県角田市に住む、陶芸家、池田匡優さん(いけだまさゆき)に会いに行く事でした。

 家内の父方の祖父は、熱心なお題目の信者で、今は福島市の中央に位置する、信夫山の霊園に葬られています。沢山の樹木の生い茂るその信夫山は、いわゆる放射能のホットスポットで、3年前は近づく事も危ないとされるくらいの高線量の放射能を発していた所です。今は線量も下がってきてはいるものの、子供を連れてはお参りには行けません。

曾祖母は、首を長くして、孫に会える事を楽しみにしているとのことでした。遠くから、双子の誕生を祝ってくれた曾祖母の喜ぶ姿が同時に私たち家族の喜びでもあります。そして、三つめの目的、池田さんは、ネットを通じて知り合った方で、その素性をあまり深くは知りませんでした。それが、以前、そのネットでのやり取りの中で、池田さんの作品『KAMIKAZE REACTOR』を一つ分けてもらえないかと訊ねたところ、見も知らぬ私に、その作品をご供養して下さったのでした。ネット上でのご縁とはいえ、私は、是非この方に一目お会いしたいと思ったのです。今回は、この池田匡優さんに宛てたお手紙を紹介する事とします。

池田匡優様

南無妙法蓮華経

 先日は、突然の訪問に関わらず、暖かくお出迎え頂き、ありがとうございました。正直に申せば、一晩お世話になって、ゆっくりと何か呑みながら、四方山お話しをしたい所でした。

この度の、福島訪問は、震災後に家内の祖母の様態が悪化し、その折、妻一人で、一泊二日の訪問をして以来、家族での訪問は実に2年半ぶりの事となりました。

 放射能の事は、とても心配で、出来る事なら子供たちを連れての訪問は、避けたいと思っておりましたが、双子が生まれてからまだ一度も顔を見たことの無い曾祖母が元気なうちに一度は顔を見せたいと思い、思い切って帰郷しました。曾祖母の喜ぶ顔を見ることができ、本当に来てよかったと思いました。しかし、頭の中では、放射能への危険性が頭を離れず、心境は複雑でした。

いつかの、NHKの特集番組で放射線研究の第一人者、岡野眞治氏が仰っていました。「3年くらい経つと、空間の放射線もだいぶ落ち着いてきて、それまで、食品など気にしていた人たちが、もう大丈夫だろうと、気を緩めるようになるでしょう。しかし、そうした時にこそ、一気に内部被曝の危険性が高まるでしょう。」

 まさに、この言葉の通り、食卓には桃や梨がずらっと並びました。取れ立ての桃を嬉しそうに剥き、卓袱台(ちゃぶだい)に持ってきたものの、私たちが手を付けようとしないを見て、福島弁で「ほら、どうだい、たべないのかい?」と語りかける曾祖母の言葉に胸が苦しくなり締め付けられる様な思いを致しました。

 お土産には沢山の梨を頂きました。ありがとう、と礼を言い持ち帰ったものの、口にする事はありませんでした。

この心の痛みや悲しみや悔しさを、一生忘れる事はないでしょう。

 しかし、私の苦悩など、とるにたらなものです。放射能のその危険性を心の奥では、感じつつも、そこで暮らさざるを得ない方々の苦悩は、計り知る事が出来ません。

 僅か、三日間の滞在でしたが、帰宅後、長男は、腹痛と嘔吐にみまわれ入院、自家中毒か、急性腸炎か、医者も病名を二転三転し、正直には言いませんが、原因がよくわからないといった様子で、福島に行った事を伝えましたが、さすがに総合病院に勤務する医者に、本音を言えるはずもありません。

その後、長女も発熱、嘔吐、次男も微熱が続き、いつもお世話になっている掛り付けの町医者に診てもらいました。血液を検査して炎症反応も無く、ウイルス性でもなく、いずれも原因は不明とのことでした。同じく、福島に行った事も伝えました。すると、その医者は言いました。

「放射能の影響は、無いという医者もいるが、僕はあると思う。僕は、腎臓の専門で、造影剤を入れて放射線を当てて検査する事があるけど、放射線を使った日は、僕はする側だけど、その日は体がだるくなる。だから、放射能の影響は、ないわけがない。福島は、本当は子供の住める様な場所じゃない、甲状腺がんの子供を福島医大に集めて一体、国は何を隠蔽しようとしているんだ。」と、憤りを露にしておられました。

 長男は、その後、元気になり退院し、幼稚園へ行くようになり、長女と次男も回復の兆しです。ご安心下さい。

 しかしながら、仏法を信奉する、私どもにとりましては、如何なる出来事が起ころうとも、お釈迦様の教えに照らし合わせ、その出来事と自らの行動を見つめていかなければならないと思うのです。

 もし、この世に目には見る事は出来ませんが、お釈迦様の大いなる力が働いており、この世の一切の出来事が、お釈迦様からのメッセージと信じるならば、この現実から一体、何を学ばなければならないのでしょうか。

 日蓮聖人は、「衆生のこころけがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとして、浄土といい穢土というも土に二つの隔てなし。ただ我等が心の善悪によると見えたり。衆生というも仏というもまたかくの如し。迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。」と仰せになられます。

 このような法華経の世界観から、この世を見渡せば、天には月が輝き、大地には、翠緑に輝く稲草が茂り、山肌を吹き抜ける心地よい風と土の匂い、美味しいお米に、撓わに実る果実、どれをとっても、この世こそ、まことのお浄土であると信じずにはいられません。

 池田さんにお会いしお話を伺った時、そのお姿から、40年前、インドを旅された時、霊鷲山にて結ばれた、そのお題目の伊吹をひしひしと感じる事が出来ました。今そこにある、あらゆる厳しい現実から、目を背けず、謙虚に、そして、ひた向きに、それと向き合うお姿こそ、今の日本人に必要な心のあり方と生き方であると思いました。

いつの日かまた、お目にかかれる事を楽しみにしております。

 

石黒友大 拝

 

 池田さんは、若かれし頃、インドを旅されたそうです。その折、霊鷲山にて、三日間、下山する事無く、寝袋にて睡眠をとり断食の唱題行をされたそうです。その様な体験のお陰で今の私があると仰っておられました。私にとりまして、この出会いもまた、一つの大きな財産となりました。

 

金色に 輝く月の 照らしける

蒼き星こそ 浄土なりけり

 

妙のみのり

井戸端会議15

 猛暑のある日、いつもの様に、お太鼓をトントン撃ちながら行脚に出かけました。その日の月参りを一軒終え、その道すがら、そこを通ると必ず立ち寄る、とある一人暮らしのおばあさん様子を伺おうと、少し遠回りではあったものの、歩くコースを変え、滝の様に流れる汗を拭いながら歩いておりました。信号を越え、道を渡ればそのおばあさんの家だという地点にさしかかったその時、帽子を深々と被り、手押し車を押しながら向こうから歩いてくる老人に出会いました。私が気付くよりも先に、「こんにちは」、と声をかけられ、よく見るとそれは、これから訪ねようとした、おばあさんその人でした。「ちょうど今おばあさん家に行こうと思っていた所でした。お元気でしたか?」と二言三言挨拶をかわしながら、先日送られてきた、この井戸端会議の最新版を頭陀袋から取り出しおばあさんに手渡しました。それを受け取る手は、なんだかおぼつかなく、「だいじょうぶですか?」と訊ねると、「う〜ん、少し暑気にあたったようでね・・・」とあまり元気の無い様子でしたので、私は、すこし心配になり、玄関までお送り届ける事にしました。おばあさんは、家の鍵をさすこともやっと様子で、ドアを開け玄関に腰掛けるなり、そのまま後ろにばったりと倒れてしまわれました。私は、びっくりして、「大丈夫ですかぁ!」と声をかけながら、おばあさんをよく見ると、顔色は優れず、珠の様な冷や汗を流し、目もうつろの様子でした。私はすぐに、なり振り構わずに台所に向かい飲み物を探しました。

 そこには、ちょうど麦茶が冷やしてあり、すかさず、近くにあったコップに注ぎ、おばあさんに飲ませました。そして、そこにあったタオルを水で冷やし、おばあさんの頭にのせました。そして、暫く様子を見ていましたが、一向に起き上がれそうにないおばあさんを見て、これは、早く救急車を呼ばないと、取り返しのつかない事になるかもしれないと思った私は、「おばあさんに「救急車呼びますよ!」と伝えるました。するとおばあさんは「救急車は、近所に迷惑だから呼ばないで欲しい」といいます。その言葉に一瞬怯んだ私は、「じゃぁ、お嫁さんの電話番号解りますか?」と訊ね、言われるままに、電話器の下から手書きの電話帳を取り出し、夢中で電話をしました。数回かけ直すも、応答がありません。愈々、このままでは本当に危ういと判断した私は、おばあさんにかまわず、「もう、そんなこと言っていても仕方が無いので、救急車よびますよ!」と念を押して、119番しました。間もなく、救急車は到着し、おばあさんは病院に運ばれ、その後、息子さんと連絡がつきその一部始終をお伝えしました。

 おばあさんは、病院で適切な処置を行ってもらい、自宅へ戻られました。数日後、わざわざ、お嫁さんと一緒にお礼にお越しになられました。おばあさんは、「今こうして生かさせて頂いている事が本当に嬉しいです。本当にありがとうございました。」と何度も何度も、頭を下げて帰っていかれたそうです。私もそれを聞いて一安心を致しました。暑い熱い夏の日の出来事です。

 

大袈裟かも知れませんが、今この様にして、命が紡がれているのは、本当に奇跡の様な事で、そのおばあさんとの交差点での出会いも、あとほんの僅か、私の歩みが速かったり、もしくは、先に月参りで訊ねた、家の方とのお話をあと数分早く終えていたのなら、私は、そこでそのおばあさんに出会う事はありませんでした。ピンポンを押して、留守なら、何のためらいも無く私はそこを通り過ぎていたことでしょう。

 

この出来事を通して、改めて、命の大切さと、私自身が生かされている、有り難さを実感させて頂く事が出来ました。そして、何よりも、おばあさんが無事だった事が、大きな喜びであり、ただ生きていて下さっただけで、その存在が何とも有り難く涙が出てきたのでありました。

 

このできごとから、先月号から少しふれている、岸見一郎氏の著作『嫌われる勇気』の中にあった「存在しているだけで価値がある」という言葉を思い出しました。それはこんな言葉でした。

『他者を「行為」のレベルではなく「存在」のレベルでみていきましょう。他者が「何をしたか」で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです。』 

 これは、とても奥深い言葉となって私の胸に刺さりました。先月号で私は、「如何なる者も、今現在の行いによって仏になる事が出来る、それが、この法華経の教えです。」と申しました。しかし、先に記しました、おばあさんとの出会いによってその事を更に深め、改めて考えることができました。

 行いによってのみ、仏になる事が出来るとするならば、おばあさんを懐抱した私のみが仏になる事になり、懐抱される側は、仏になる事ができないのか?という事になります。そんなことはありません。私の行為も、そこに存在していたおばあさんの存在も、この出来事を経験して等しく互いに命の有り難さを感じる事が出来ました。その命の尊さを実感することが仏になる事の一つだとするならば、それは間違いなく、私とおばあさんの心に深く刻まれた成仏の証となることでしょう。

 ついつい、人は、自分の行いも他人の行いも、善い、悪い、優れている、劣っていると評価して、ジャッジメントしがちであります。アドラーは、「他者を見る時、理想像としての100点満点から引き算をしていくのではなく、「ゼロ」の地点から出発する。そうすれば、「存在」そのものに声をかける事が出来るはずである。」というのです。

 存在そのものを受け入れることから始まり、そこから、自分自身が他に対して何が出来るのかを考える。ありのままの自分を受け入れ、他者を信頼し、他者へ貢献していく。その為に必要な条件として、アドラーは、一念三千に通ずる、「共同体感覚」という概念を提唱しています。

彼は、人が生きていく上での悩みは全て対人関係に由来し、その対人関係におけるあらゆる悩みの解決は、他者を仲間だと見なし、そこにこそ「自分の居場所がある」と感ずる事であると言うのです。  

 驚くべき事に、アドラーの述べる共同体感覚とは、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、たとえば、国家や人類等などの全てが含まれ、時間軸においては過去から未来までも含まれ、更には動植物や無生物までも含まれるとするのです。つまり、単なる既存の枠組みを超えた、過去から未来、そして宇宙全体までも含んだ、文字通りの「すべて」が共同体なのだ、と提唱しているのです。言うなれば、存在しているものすべてが、仲間であり、自分はその一部分であるという事なのです。

 この感覚を身につける事が出来れば、より大きな枠組みの中で、自分を受け入れ、他を信頼し、いのちあるもの互いに貢献しあえることでしょう。そして、世界全体がその様に考えられる事が出来れば、世界は平和になるにちがいありません。今回は、著書『嫌われる勇気』について、その一部を紹介しました。あえて、タイトルに言及しなかったのは、興味を抱いて是非読んで貰いたいとの思いからです。法華経の信奉者には、この世の全てが釈尊からのメッセージとなることでしょう。

 

雨樋を 流れる水の音までも 妙のみのりの 響きなりけり

 

 

JURAN

http://jurancop21.net/

 

天鼓トントン

南無妙法蓮華経

 

井戸端会議14

6月30日、首相官邸前には、翌日の安倍政権の集団的自衛権の行使容認の閣議決定を前に、それに反対する4万人もの人々で溢れかえりました。集団的自衛権とは、ご存知の通り、自衛隊が同盟国アメリカと一緒に、他国に対して武力行使をする事です。国は、一九五四年の自衛隊発足以来、日本が攻められたときに限り行使できる個別的自衛権を認めてきました。今回は、その枠組みを越えて、幾つかの要件を満たせば、日本が他国から攻撃をされた時のみならず、日本と密接な関係にある他国への武力行使があった場合も、そこに自衛隊が出かけて行って人を殺してもよい、という憲法解釈をする事が閣議決定されたのです。68年前、敗戦亡国した日本は、二つの原爆を投下され、何千何万の人々が殺し殺され、もう戦争には、こりごりしたはずでした。一つには、そんな日本人の心のどこかに、戦争に負けて悔しい思いをした、その反省せざる幽恨の想いが潜んでいてその思いの現れとなったのでしょうか。ともかく、戦争に一歩踏み出した事は間違いないようであります。しかしながら、国家も個人も、多かれ少なかれ、様々な過去のトラウマのようなものを抱えて生きているようであります。

 

このトラウマ(trauma)とは、有名な心理学者、フロイトが『精神分析入門』に於いて発表した言葉で過去の強い心の傷の事をいいます。人は、この過去のトラウマによって、今の自分の心のあり方や、生き方が決定されるとしたものです。この考えに違を唱えた心理学者に「アルフレッド・アドラー」がいます。アマゾンの2014年の上半期和書総合部門の第一位に輝き33万部を売り上げた作品『嫌われる勇気』は、この心理学を岸見一郎氏と古賀史健氏が「青年」と「哲人」に扮して解りやすく描いたものです。日本では、フロイト、ユングという心理学者は有名ですが、このアドラーは、初めて耳にした方も多いのではないでしょうか。実は私もその一人でした。

そんなある日、ある事がきっかけで、母と口論になり憤慨しながら家をでました。途中、本屋に寄る用があったので、立ち寄るとそのアドラーの本が目に止まりました。『アルフレッド・アドラー・人生に革命が起きる・100の言葉』この赤く光ったハードカバーを手にし、どんな事が書いてあるのだろうと、ふっと本を開くと、そこにはこんな事が書かれていました。

 

子供は「感情」でしか大人を支配できない。大人になってからも感情を使って人を動かそうとするのは幼稚である。

 

数分前、母との意見の違いに感情を露(あらわ)にした自分を恥ずかしく思うと同時に、迷わずその本を握りしめレジに並んでいました。この本も実に興味深い内容でしたが、『嫌われる勇気』はそれを超える驚きに満ちたものでした。

特に、トラウマについての青年と哲人の問答は、先日、自坊にて進藤先生にご講義頂いた「本因本果の法門」と妙にシンクロし、私の頭の中を駆け巡りました。

そこには次の様に書かれていました。

 

哲人・あまねく人の「現在」が、「過去」の出来事によって規定されるのだとすれば、おかしな事になりませんか?だってそうでしょう、両親から虐待を受けて育った人は、全てがご友人と同じ結果に、すなわち引きこもりになっていないとつじつまが合わない。過去が現在を規定する、原因が結果を支配するとは、そういうことでしょう。

青年・・・・なにをおっしゃりたいのですか?

哲人・過去の原因ばかりに目を向け、原因だけで物事を説明しようとすると、話はおのずと「決定論」に行き着きます。すなわち、我々の現在、そして未来は、すべて過去の出来事によって決定済みであり、動かしようのないものである、と。違います?

青年・では過去など関係ないと?

哲人・ええ、それがアドラー心理学の立場です。(中略)

哲人・アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、今の「目的」を考えます。

ご友人は「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で、「外に出たくないから、不安という感情を作り出している」と考えるのです。

つまり、ご友人には、「外に出ない」という目的が先にあって、その目的を達成する手段として、不安や恐怖といった感情をこしらえているのです。(中略)

青年・ありえません!そんな議論はオカルトです!

哲人・違います。これは「原因論」と「目的論」の違いです。あなたのおっしゃる話は、すべて原因論に基づいています。我々は原因論の住人であり続ける限り、一歩も前には進めません。

さらに、「自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自ら目的を決定するのである。」というのです。

これは、『開目抄』に説かれる「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる。
四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打ちやぶて、本門十界の因果をとき顕わす。此れ本因本果の法門なり。
九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」との法門に通ずるものです。

 

(法華経の如来寿量品の本門に至って、釈尊はたまたまブッダガヤの菩提樹の下で覚りを開いたのではないことが明らかにされれば、釈尊の教えは蔵教(ぞうきよう)・通教(つうぎよう)・別教(べつきよう)・円教(えんぎよう)という四つの教えの中に集約されると理解してきたことが、表面的な教えであることがはっきりし、それらの四教による限りでは釈尊の覚(さと)りを示すには充分でないことが明確にされ、それによって、四教が示した覚りに至る修行の道筋も否定されることになる。

こうして、法華経の以前に説かれた諸経典や法華経の迹門に説かれた「十界の因果」は充分に確立していないとし、仏界の確立を中心とする「本門の十界の因果」が説き明かされた。これがすなわち本因(ほんいん)・本果(ほんが )の教えである。ここにおいて地獄界から菩薩界に至る九界は「無始の仏界」(永遠なる仏界)に包まれ、仏界も「無始の九界」(永遠の衆生)の中におのずから備わっている救済の様相が示され、真実の十界互具・百界千如・一念三千が明らかにされるに至ったのである。)「全集」

 

もし、過去に積み上げたカルマ(業)によってその人の現在が決定づけられるとする(因果論)ならば、悪業の因縁によって人は仏になる事は出来ないことになります。

如何なる者も、今現在の行いによって仏になる事ができる、それがこの法華経の教えです。

過去に支配されない生き方を目指す、アドラーの「目的論」は過去の経験にどのように意味付けし、今現在どのような目的をもって生きるか、人間の無限の可能性を信じ「人は変われる」という事を前提に考えた、まさに「人は誰でも必ず仏になることができる」と説く法華経の教えと重なると深く感激しました。(つづく)

 

薫風に 

棚引く御旗の 

その下で

天鼓トントン 

世界平和

 

鷲嵐学林
じゅらんCO

http://jurancop21.net/

バーニングマン2

南無妙法蓮華経

井戸端会議13

 

先月号では、アメリカ・ネバダ州の砂漠での奇祭、「バーニングマン」の会場に於ける乱数発生器を使った興味深い実験とその結果について少しく触れました。この実験では、確かに、遠くはなれた物質(量子)に人間の意識が何らかの影響を与えるのでは無いかという実験結果を得る事が出来ました。これは、天台大師の説かれた「一念三千の法門」に通ずるものです。今回はその「一念三千の法門」について、浅はかな愚考を巡らしてみたいと思います。

「一念三千」と申しましても、その深々の意義を深く掘り下げ解説する事は、私の様な浅学のものにはあまりにも力の及ばないこところでありますので、ここでは、その「三千」という数字についてのみの解説にとどめたいと思います。

 一念とは、私たちの心に生まれては消えを繰り返す一瞬一瞬の僅かな心の事を指します。その心には、十の世界が存在します。それは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界、声聞、縁覚、菩薩、仏の世界の事です。

 日蓮聖人は、この心を次の様に申されておられます。

「数(しばし)ば他面を見るに、或時は喜び、或時は瞋り、或時は平(たいらか)に、或時は貪り現じ、或時は癡(おろか)現じ、或時は諂曲(てんごく)なり、瞋(いか)るは地獄・貪るは餓鬼・癡(おろか)は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平(たいら)かなるは人なり云々・・・」

更に、天界とは歓びの心、声聞とは仏の教えを求め真摯に学ぶ心、縁覚とはひとりひたすらに悟りを求める心、菩薩とは自らも悟りを求めると同時に他をも導こうと勤める心、仏とは慈しみ深い円満な心、この様な心が、私たちの心の内に存在するというのです。

更にこの心の一つ一つは互いに具わり合っていると言います。それは地獄の中にも、「仏の世界」〜「菩薩の世界」までの、他の九つの世界が内在し、また、仏の中にもまた、他の九つの世界が内在するというのです。つまり、地獄界から、仏界の全てが、互いに具わりあっていると言う事で、それを合わると、百の世界が心に存在する事になります。

そして、その百の心一つ一つに、「十如是(じゅうにょぜ)」という真実の十の有様、「実相(じっそう)」があるといいます。その実相とは、真理に照らし合わせると、包み隠す事の出来ない言うなれば、「ありのままの姿」というのがあるというのです。それは、「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」といいます。

「氷」を例に挙げ説明したいと思います。「相」とは、人相、手相と言われる様に、「面(おもて)外側に現れる姿」をいいます。氷は透き通った透明の姿をしています。「性」とは、「そのものの内側の性質」であり、氷は冷たく、暖まると解ける性質をもっています。「体」とは、「姿と性質とを合わせもつその実体」のことです。次に「力」とは、これら「相・性・体」を併せ持つ「力」の事です。透明で冷たい氷は冷やしたりできる力を持っています。そして、実際にこの内在する力が外へ向かって影響した時、何かを冷やす事が出来ます。その「外に現れる作用」を作(さ)といいます。「因」とは、それら全てが事の発端の「原因」となるのです。その「相〜因」をもちあわせた氷という存在は、「縁」によって熱いお茶と出会った時、その「果・報」が現れます。氷は解けて水となりその姿形を失い、熱いお茶は、冷やされ冷たいお茶となります。「本末究竟等」とは、これら全ての条件は如何なるものが如何なる状況に於いても、縁を結んだその全ての存在は互いに「始めから終わりまで等しい」姿を現すという事です。氷は解けて無くなりその全てを失い、暖かいお茶は冷やされ冷たいお茶となる。互いにその姿は変化したものの、暑い夏に麦茶をぐびぐびっと飲みたい私にとっては、消えた氷の存在も、冷えたお茶の存在も双方、とても有り難い存在となるのです。この様な状態をさして「本末究竟等」というのです。この十の真実の有様が百の心の一つ一つに具わっているというのです。つまり、百界に十如是が加わり「千如是」となります。一方私たちの住む世界は、大きく三つに分ける事が出来るのだと言います。「衆生世間」という、「私たちの生きる人間社会の集団」、「国土世間」という「この地球の国土、大地」、「五蘊世間」という「個人に存在する物質と精神」先の千如是にこれら全てをかけ合わせると、私たち人間の一瞬の心にはおよそ「三千の世界」が存在するという事になるというのです。縦横無尽に折り重なったこの果てしない世界が、ほんの僅かな、この一念に具わっているのだと言うのです。

これを天台大師は「一念三千」と申されました。これら心の世界を譬えて言うならば、まるで幾重にも重なる立体的な万華鏡の様な世界であります。

これほどまでに、自らの一念が、他の心の内側の世界そして、外側の世界、石ころから、植物、大地、更には、果てしない宇宙の果てまで、はたまた、ミクロ、マクロの世界の量子にまで、生物、無生物に関わらず、ありとあらゆるものに影響し、そして、影響し合う関係にある事。もし、あなたが、この天台大師の「一念三千」の真理を信じるならば、あなたの一念は、とてつもなく大きな影響力とエネルギーに満ち満ちたものとなるでしょう。

逆に考えるならば、これほどまでに、自らの一念が他に影響を及ぼすならば、今、何を想い、何を考えるのか、その一瞬の心が、重大な責任ある一念となり、自らに迫ってくるでしょう。

この様に考えると、「意識」が、量子(物質)に何らかの影響を与える事を実証したバーニングマンでの実験結果は、私たちの「こころ」に科学的に迫る画期的な実験だったと言う事が出来るでしょう。

とはいうものの、私たち現代人は、その心から生じる苦しみから、どうにかして逃れる事が出来ないものかと、あの手この手で、心やこの世の全ての出来事の不思議を解明しようと試みます。医学に於いては、新たな病原菌や、死に至る病とその原因を探り突き止めようと躍起(やっき)になっています。

 どんなに科学や医療が進歩しても、心を離れて人は生きていく事が出来ません。たとえ科学の力によって、肉体的に不老不死を手に入れたとしても、新たに不老不死による心の苦しみが生まれるでしょう。

或は、バーニングマンでの実験の様に、心やその意識の持つエネルギーを科学的に解明しようと試みたところで、その心をコントロールし、意のままにする事など不可能でしょう。

心は果てしなく広がり続ける広大な宇宙のようなものであります、心を意のままにする事は、言ってみれば、この大宇宙を意のままにする様なことなのです。

そして、このどうにも捉えようの無い心こそ、あらゆる苦しみを生み出す源なのです。では、この心から生じる苦しみに私たちは、どのように向かい合えばよいのでしょうか。

その大いなる智慧が仏法には説かれるのであります。

 天台大師は『摩訶止観』の中に「仏法は海のように広大であり、信ずることによって、仏法に入る事が出来る。信は仏道の源であり功徳の母であり一切の善法はこれによって生ずる」と説かれておられます。仏法を信ずる一念、それは私たちの持つ心の世界において善なる一念の源であります。その様な人としての善き意識と生き方から功徳が生まれ、その功徳により、そこに存在する苦しみをありのままを受け入れることの出来る心を養う事ができるということでしょう。

さればこそ、日蓮聖人の仰せになる「一念三千の法門は、但、法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」とのお言葉を信じ生きる事が、善と悪とを見誤る、私達にとりまして最前の生き方であり、南無妙法蓮華経を信じ念ずることと、その一念を持ち続けることこそが一切衆生を救わんと御誓願なされ、尊い大慈悲を注がれたお釈迦様の一念とひとつになることに他ならないのです。そして、だからこそ「一念三千を識らざる者には、仏、大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹(つつ)み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」との日蓮聖人のお言葉は、邪(よこしま)な心に翻弄され、自らの中に涌き出でる折々の一念に対して満足に責任を取ることも叶わず、幼稚なままに自我を生きる末代の愚人にとって、何より心強いお言葉となり心に響くのであります。

 

ひさかたの 天にかかりし わが心

      遠の因果も いとあわれなり

 

 

鷲嵐学林
じゅらんCO

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バーニングマン1

井戸端会議12

南無妙法蓮華経

摩訶止観第五に云く、

「夫(それ)一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在(あ)り。若し心無くんば已(や)みなん。介爾(けに)も心有れば即ち三千を具す」

これは、日蓮聖人ご述作、観心本尊抄の冒頭の一節です。私はここで説き示される「一念三千」を科学的に裏付ける様な実験が行われた様子を、とある番組で目の当たりにしました。

今はその感動と驚きをとをぜひ皆様にもお伝えしたくてペンを走らせています。

 あなたはアメリカ北西部、ネバダ州の砂漠の荒野にで年に一度、突如として直径二・四㎞円形の大きな街が出来上がるのをご存知でしょうか?

 毎年八月の下旬から九月にかけて、八日間に渡って開催される、世界中から六万人とも七万人ともいわれる人々が集まり一つのコミニティが出来上がります。電気もガスも水道も無い砂漠の荒野になぜそんなにも多くの人が集まるのでしょうか?

 「バーニングマン」と呼ばれる世紀の祭典は、一九八六年六月二十一日、ラリー・ハーベイとジェリー・ジェイムスの二人によってもたらされました。

 ある日彼らはカルフォルニア州のベイカー・ビーチで、二・四mの木造の人形に火を放ちました。始めは、ラリーが大切な恋人との別れにケジメをつける為の奇行であり、憂(う)さ晴らしの様なものでありましたが、この「マンを解き放つ」(Release the Man)行為を通じて意気投合した二人は、毎年夏至になるとそのビーチで大きな木造の人形に火を放つようになり、やがてそれが、西海岸のクリエイティブな人々の興味を引く様になりました。いつしか、それは五百人規模のイベントに成長し同時に毎年その木像も大きくなっていきました。そして、ついに、十二mまでに巨大化した木像に火を放つ事に行政からストップがかかりました。やむなく木像を解体した彼らは、それでも諦めきれず、二ヶ月後、シェラネバダ山脈を越えたブラックロック砂漠にて再び組み立て祭典はその砂漠で開催される事になりました。

爾来このバーニングマンは新たなコンセプトに基づいて再出発したのです。何も無い砂漠に、見知らぬ人々が集まり、共同生活をしながら、お互いに助け合い、励まし合って生きる日々。

「誰にでもオープンであること」「ギフト文化の推進」「商業主義から脱却すること」「徹底的に自立していること」「自己表現を究めること」「ともに努力=協力すること」「社会人としての責任を果たすこと」「あとを残さないこと」「参加すること」「現場での体験を大事にすること」。誰もがこの十の原則を合い言葉に、楽しいけど過酷な八日間を過ごすのです。

 このブラックロック砂漠は、プラーヤと呼ばれる、アルカリ性の塩の堆積した砂漠で、サボテンさえ生える事はありません。この時期の気温は、日中は摂氏四十度、夜は摂氏四度まで冷え込見ます。時に、ホワイトアウトと言われる、砂嵐に見舞われ、視界がゼロになることもあれば、時に大雨が降れば辺り一面泥沼と化すこともあります。水、食料、衣類、住居、燃料等、生きる為に必要な全てのものは、一切販売される事は無く、全て自らの責任に於いて用意しなければなりません。

 この様な過酷で劣悪な環境の中で過ごすには、必ず隣人と互いに協力し会わなければなりません。ここでは貨幣経済は否定され、「贈り物経済」(Gift economy)と、そしてなによりも互いに助け合う「親切なこころ」が必要とされるのです。会場の中央には寺院が建築され、その寺院の壁や柱には、参加者が沢山のメッセージが刻んでいきます。会期中は昼夜を問わず会場の至る所で大小様々なアートパフォーマンスや音楽演奏が繰り広げられ、そして、この祭りクライマックスの夜に、あの巨大な木像、「ザ・マン」に火を放つ行為、つまり、「マンを解き放つ」(Release the Man)は行われます。その時、その地に集まった七万人の大衆の目は木像の巨人一点に注がれます。そして、火の放たれる瞬間此の祭りはピークに達し、やがて、激しい炎の中で崩れ落ちていく巨人の周辺に嘆息、鳴き声と、どよめきが渦巻き、言いようの無い静寂に包まれて終焉がやってくるのです。

 その八日間は、ハワイの様な楽園でバカンスを楽しむ様なそんな、お気楽な休日ではなく、過酷な環境下で、徹底的に自らを解放する日々です。そこには多くの出会いがあり、感動があり、そして苦しみがあります。言ってみれば、「楽しむ修行」そんな八日間の最後に人々の思い想いの心をのせて一体の巨人は燃え上がるのであります。

 

 少し前置きが長くなりましたが、このバーニングマンのクライマックスに溢れる多くの人々のその「意識」に注目した一人の科学者がいました。

 ディーン・レイディン博士、その人は、此のバーニングマンにおいてとても興味深い実験をしました。乱数発生器なる装置を会場の六箇所に仕掛け、その測定を行ったのです。

 この乱数発生機という機械は、電磁波に影響を受けにくい、箱の中で、物質を極限まで分割していった時に最後に残る最少単位の粒子である、「量子」を発生させ、その量子が飛び出る側面に壁を設け、その壁を量子が突き抜ける確率を五分五分にし、抜けたときは「1」を、抜けなければ「0」をランダムに計測する様に仕組まれています。この乱数発生器は、あの忌まわしい、二〇〇一年九月十一日のニューヨークの貿易センタービルのテロ事件があった日を境に、世界四十箇所に設置してあるデータ数値が数日間にわたり著しい偏りが生じたされる代物です。

 この数値の変化に対しては、その時世界中で同時に携帯電話やテレビの電波等多くの電磁波が発生しその影響を受けたのではないか、という科学者もいましたが、それは、人の意識(想い)が量子に何らかの影響を与え、そのことが数値に偏りを生む原因になったのではと考える科学者もいました。

 だからこそ、ディーン博士は、様々な電磁波等の影響を受ける可能性の無い、このバーニングマンの会場こそ、この測定にもってこいだと考えこの乱数発生器を設置したのです。巨人の腕があがり始め火が放たれる合図のある午後九時頃、祭りのクライマックスはおとずれ、人々の興奮はピークに達します。そして、なんとこの瞬間に乱数発生器の数値に劇的な変化が現れたのです。ディーン博士は、後にこの測定結果について、「手が震える思いだ」と語っておられました。

 

(つづく) 

 

凡心に 映りし月を眺むれど

 

浅き信心 いつか出逢わん

 

じゅらんCO

JURAN

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社本鋭郎

井戸端会議11

 

南無妙法蓮華経

 桜の花が満開を迎えました。桜という花は、日本人の心の様な花ですが、時に桜を揶揄するように、奇麗なのは一瞬で、毛虫や葉が落ちる、日陰になる等、その負の側面を口にする人がいます。これもまた日本人の心なのでしょう。そんな日本には多くの桜の名所がありますが、ここ尾張地方にも、日本さくら名所100選に選ばれた「五条川の桜」があります。大口町、江南市、岩倉市と三市に股がる全長27キロ、3500本という圧巻の桜並木です。この桜並木を植えた人、社本鋭郎氏は当時、無報酬で大口町町長を勤めた人でもありました。今では見事な桜並木も、戦後間もない頃、人々の心にも桜を楽しむ様な余裕はなかったのでしょうか、植えるにあたり、様々な理由で多くの反対の声がありました。そんな中氏は自費で苗木を買い、一本一本植えていきました。やがて、その活動が人々の理解を得て広がり、今の桜並木が生まれました。その美しさもさることながら今では、その桜を見に多くの人が集まり、社会的共通資本として、多くの人々に還元されています。晩年、社本鋭郎氏はなぜこの桜を植えたのか訊ねられ、「川への恩返しです。」と答えたそうです。

その桜も早々と花びらの舞う季節となり、五条川の水面を桜色に染めております。

此の様に季節の移り変わりも早いものですが、時代の変化もまた、早いものです。皆様もご存知の通り、先日は、テレビ番組「笑っていいとも」が三十二年間、通算八〇五四回の放送に幕を下ろしました。

この記録は、単独の司会者による生放送の長寿記録として、ギネスブックの世界記録に認定され、その夜に放送されたグランドフィナーレでは、この番組のレギュラーを経て、育って行った今の芸能界を引っ張る大御所芸人たちが一同に集結し、その最後を惜しむ姿が見られました。

日頃は、ゆっくりバラエティー番組を見ることのない私ですが、その夜ばかりは、自分とは別世界の世相と、その変遷とを見るような思いで観覧しました。その番組の最後に、タモリこと森田一義氏が残した言葉が私にはとても印象的でした。

 「こんなに集まっていただいてありがとうございます。出演者、スタッフのおかげで三十二年間無事にやることができまして。まだ感慨というのはないんですよね。ちょっとほっとしただけで。来週の火曜日くらいからくるんじゃないかと思います。明日もアルタに行かなきゃなりません。楽屋の整理がありますんで。私物が一杯置いてありますんで。

 考えてみれば気持ちの悪い男でして。こういう番組で以前の私の姿を見るのが大嫌いなんですよね。なんか気持ちが悪い。濡れたしめじみたいな。嫌~な、ぬめえとした感じで本当に嫌でして。私、いまだに自分の番組を見ません。

 また、それで性格が当時ひねくれておりまして。不遜で。生意気で。世の中なめくさってたんですね。そのくせ何もやったことがないんですけど。それがどうしたわけか、初代の亡くなられました横澤(彪・たけし)プロデューサーから仰せつかりまして、だいたい3か月か半年で終わるんじゃないかと思っていたところが、この32年になりました。

 まあ生意気なことでやってたんですけど、長い間に視聴者の皆様がいろんなシチュエーション、いろんな状況、いろんな思いでずっと見てきていただいたのが、こっちに伝わりまして私も変わりまして、なんとなくタレントとして形を成したということなんです。視聴者の皆様方からたくさんの価値をつけていただき、またこのみすぼらしい身に、たくさんの綺麗な衣装を着せていただきました。そして今日ここで直接お礼をいう機会がありましたことを感謝したいと思います。三十二年間本当にありがとうございました。お世話になりました。」

タモリさんはコメントの後、「また明日も見てくれるかな」といつものコメントを発し、集まった新旧出演者の「いいとも!」の掛け声に包まれる中、最後の“いいとも"を終えました。(livedoorNEWSより)

オリンピックなどのメダリストにも見られる様に、人は、何かを成し遂げた時の言葉にこそ、その誠の姿を垣間みる事が出来るもののようです。タモリさんの残したその言葉は、我仏道を求めるものにとっても、おおいに学ぶべきそれであり、なおかつ、その謙虚な態度には、改めてその人格の高さに頭が下がりました。

特に、「 視聴者の皆様方からたくさんの価値をつけていただき、またこのみすぼらしい身に、たくさんの綺麗な衣装を着せていただきました。」との言葉には深い感動を覚えました。テレビの世界は華やかな姿と裏腹に、そこには視聴者からの想いが言葉ではなく、視聴率という数字でダイレクトにその評価となって現れるという厳しさが横たわっています。そこはボタン一つで消されてしまう無情な世界でもあるのです。そんな中「みすぼらしい身に・・・」と表現された事は、大袈裟な表現のようですが、芸能界という厳しい世界でビートたけし、明石家さんまに並ぶ「ビック3」と言われるまでの芸人になりながら、驕る(おごる)事なく、大衆への娯楽提供という仕事に意味を感じ、みたすら、にまじめに淡々と芸を磨いてこられた人なればこその輝きがありました。

 考えてみれば、お坊様というお仕事も、似た様な所があるかもしれません。時には、面白い話で笑わせてみたり、どんなに辛く悲しい出来事があっても、人前では何事も無い様に振る舞ってみたり、お坊様と言うだけで、大した修行もせず怠けて、みすぼらしい心に袈裟と衣を身に纏(まと)い、それでいてあたかも聖人の様に扱われたり、仏道など決して求めずペテン師の様にしてみたり・・・

 『妙法蓮華経法師品第十』は、お釈迦様の滅後この法華経を弘める者の心得を次の様に説いています。

「若し善男子、善女子有って、如来の滅後に、四衆の為に 是の法華経を欲せば、如何が応に説くべき。是の善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に座して、爾して乃し四衆の為に広くこの経を説くべし、如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是なり、如来の衣とは柔和忍辱の心是なり、如来の座とは一切法空是なり」と。

 時に私がごとき愚禿(ぐとく)そのみすぼらしい凡夫の身に、南無妙法蓮華経のお題目を唱える事によって柔和忍辱の衣装を着せて頂くことがあります。その衣は、あたかも磁石が鉄を吸うかのように、みすぼらしいこの身から、心の垢を吸い取って清らかにしてくれます。ごくごく自然のうちに、そんな気分にさせて頂ける瞬間こそは、仏道修行をする者の冥利であり、歓びでもあります。それは多くの場合、困難に出会った時であり、口惜しさに歯ぎしりをして涙するときであり、何よりも、それらの苦悩をやっとこさ一つ乗り越えた時であったりします。しかし、そんな姿ほど、まぶしくて、どうしようもないくらい、人間らしさが感じられたりするのですから、やはり法華経は妙法なのでありましょうか。

 

 

桜散る 春風強き 時なれど 霊山一会 厳然未散

 

『じゅらんCO』

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「此経難持」

井戸端会議10

南無妙法蓮華経

 春の暖かな陽射しに、心地よい風が吹く爽やかな季節になりました。こんな気持ちのよい季節とは裏腹に、娘の通う小学校からは、大陸からの風に乗って黄砂と共にPM2.5が飛来しますので、外出を控えることと、登校時には、マスクを着用するようにとの案内のメールが届きます。かつて映画監督の黒澤明は、映画『夢・赤富士』のノートに次のように綴っています。

「猿は火を使わない。火は自分達の手に負えない事を知っているからだ。ところが、人間は核を使い出した。それが、自分達の手に負えないとは考えないらしい。火山の爆発が手に負えないのは、わかっているのに、原子力発電所の爆発なら、なんとかなると思ってるのは・・・どうかと思うね。高い木に登って、自分のまたがっている木の枝を一生懸命切っているいる阿呆に似ているね。」

 この先も到底直ぐには治まりそうにない、中国の大気汚染は、数十年前に日本が体験した公害問題の再来であります。九州では、PM2.5ならぬ、PM0.5という更に微細で人体に悪影響を及ぼす汚染物質も観測されるようになりました。此の様な問題を一つ一つ解決していかなければ、生命に未来はないように思います。問題解決の糸口は一体どこにあるのでしょうか。命より経済優先の市場原理主義の誤りに気づき、経済成長等の幻想は捨てて、共に生き抜くには、どのような経済社会を構築していけばよいのか、今こそ、宗教的智慧に目を向ける時ではないでしょうか。

 さて、先日お彼岸のお中日の夜、とある「法座」へ出かけて参りました。「法座」とは、主に寺院乃至、御信者様の自宅にて集い、お経を上げて、その後、数名が代表して、信仰体験を語り、互いにそれを確かめ合い、更なる法華信仰の深まりを誓い合う場所の事を言います。その法座とは、昭和十年頃から八十年余続く「板角総本舗」の現会長宅での法座でした。

 板角とは皆様もご存知と通り、えび煎餅「ゆかり」を生産している煎餅屋さんことです。ではなぜ、その法座に足を運んだのかと申しますと、それは、ご縁のある庵主様より、最後の法座ですのでお時間あれば、是非お越し下さいとのお誘いを受けたことがきっかけでした。

 その法座は、小さな街の小さな煎餅屋の二階から始まりました。えび煎餅を一枚一枚ひっくり返し焼きながら、殺生を商売にするからと、その法座に集う方々にそれを供養する事数十年、遂には、板角が大檀越となり、愛知県東海市に妙法寺、名古屋市に道心寺の二ヶ寺を建立するに至りました。その信仰の始まりの場である板角の徳高き法の会座が、ここに来て一つの時代の区切りとなりました。その歴史的終焉をこの目で確と見届けようと思い出かけて行きました。そこは、その最後を惜しむ人で溢れていました。複雑な思いの入り交じったその場の雰囲気に、私は、二つの事を思い浮かべました。一つは、法師品の「況滅度後」の文字、もう一つは宝塔品の「此経難持」の文字です。

 日蓮聖人は、『三沢鈔』に次の様にお示しになられます。

たとい明師並に実経に値い奉りて正法をへ(得)たる人なれども、生死をいで仏にならむとする時には、かならず影の身にそうがごとく、雨に雲のあるがごとく、三障四魔と申して七の大事出現す。(中略)日蓮さきよりかゝるべしとみほどき(見解)候て、末代の凡夫の今生に仏になる事は大事にて候けり。釈迦仏の仏にならせ給いし事を経々にあまたとかれて候に、第六天の魔王のいたしける大難、いかにも忍ぶべしともみへ候はず候。提婆達多・阿闍世王の悪事はひとへに第六天の魔王のたばかりとこそみて候へ。まして「如来の現在すらなお怨嫉多し、いわんや滅度の後をや」と申して大覚世尊の御時の御難だにも、凡夫の身日蓮等がやうなる者は片時一日(ひとひ)も忍びがたかるべし。」

此の様に、第六天の魔王は、法華経を説く人、説く所をあの手この手で阻んでくるのです。

 そして、もう一つの、「此経難持」については、『四條金吾殿御返事』に於いて、「法華経の文に難信難解と説き給ふは是也。此経をきゝうくる人は多し。まことに聞受る如に大難来れども憶持不忘の人は希なる也。受るはやすく、持はかたし。さる間成仏は持にあり。此経を持ん人は難に値べしと心得て持つ也。則為疾得無上仏道は疑なし。三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを持とは云也。経云、護持仏所属といへり。天台大師云く、「信力の故に受け念力の故に持つ云々」。(中略)法華経の行者は久遠長寿の如来也。修行の枝をきられまげられん事疑なかるべし。此より後は此経難持の四字を暫時もわすれず案じ給べし。」と仰せになられます。

  この日蓮聖人のお言葉から、この度の板角の法座の最後を鑑みてみますと、実に八十年余に渡り毎月続けてこられた歴史と、更には大檀越となり、二ヶ寺建立を成し遂げられた事もまた奇跡的なことであったと言えましょう。そして、私も含め、あの場にいた多くの人は、この場所での法座は、一旦の区切りとされましたが、決してこの法座の灯を消す事なく、また新たな形で次世代へ紹継していかなければならないとの御誓いを深く胸に刻んだ事だろうと思います。歴史的な法座が閉じた事には痛惜の想いは残りますが、同時に私の心中に生まれた、受持の一念は誠に有り難いことでもありました。遥かなる仏道を、時には退転し、時には信じ貫き、末法で此の法華経に出会えた事を改めて歓喜し、今度こそ退転しないとの誓いを新たに、これからも、心にお題目を受持し念じ怠る事無きよう修行に励みたいと思います。

 

春深し 電光朝露の桜えび 誓いあらたに 深く噛みしめ

 

 

井戸端会議9

南無妙法蓮華経

 自坊、昭蓮寺の福寿草の蕾も膨らみ、いよいよ春がそこまで来ています。日差しも少しずつ強くなり、風の穏やかな日に、お太鼓を撃って歩けば、額に薄らと汗がにじみます。昨年の六月号からこの月刊JURANの「ふるさと寺」のコーナーを担当させて頂く様になり、初回「フクシマを想う」を含め早、十回目となりました。この度は少し、日頃の何気ない心の内を綴りたいと想います。

 私の住む町、この江南の街を歩き始めて、8年の歳月が流れました。最近は、心忙しくなり、車で出かける事が多くなりましたが、時間を見つけては、トントンとお太鼓を撃って出かけます。道行く学生や、おばさんに挨拶をしながら、行き交う人に、深々と頭を下げ礼拝をします。この但行礼拝の行は、ただの真似事に過ぎませんが、心の中は、いつもわくわくしています。人々の心の一粒一粒の仏種が、お題目にすれ違う、ほんの一瞬の縁にふれて、僅かな水分を得て発芽する種の様に、遥か永い命の繰り返しの中にいつしか必ず、その華に気づくであろうと、想像するとわくわくするのです。そして、燦々と降り注ぐ日の光に照らされていつしかこんな想いも涌いてきたりします。それは、私がお題目を弘めるのではなく、お題目様が自ずと人の心に弘まるにちがいない。だから、私は、但、そのことを信じてお題目を唱え、太鼓を撃って歩くだけです。そう思えると、自然に自分の全身から、気負いの様なものが消えていきます。末法の世に生まれた愚劣な人間として、大それた事が出来るなどと思い上がっても仕方ありません。このお題目様にどのような力が具わっているのか、そのまことのお力を今の自分には、到底計り知る事は出来ませんが、怠惰な自分をいつも奮い立たせてくれる妙薬であることに違いありません。お題目に出会い唱えておっても、このざまです。もしお題目に出会っていなかったらと想像するだけでゾッとします。

そして同時に、お題目に出会う事が出来て本当によかったと想うのです。そにように、今の自分を見つめても、今の日本を見つめても、お題目を唱えさせて頂けるその原動力は、善い事よりも、悪い事であることが多いように私には思えます。このような思いで今の宗門を垣間みて、そこにおいでの日蓮宗教師方々を見させて頂くと、改めていろいろなスタイルや、考え方の方がおられる事に気づかされたりも致します。

 例えば、立派な本堂を建てたいとか、占いをして多くの信者を獲得したい、立派なお上人様だと崇め奉られたい、潤沢に寺院経営をしたいとか、はたまた、お葬式で稼ぎたい、もっと説教が上手くなりたい、荒行堂に何回も行きたい、伝師様になりたい、荒行堂で全堂木柾をしたい、信行道場の先生になりたい、声明導師になりたい等々、誠に人それぞれ、千差万別であります。

また、一方、深い信心の境地に至りたい、日蓮聖人の唱えたお題目の境地を知りたい、御遺文や法華経を学び日蓮聖人やお釈迦様、その心に触れたいという信仰的目標を持つ方も、これまた大勢おいでです。

 私の場合には、どちらだろうかと自問自答すれば、どうも後者の信仰的目標をいかにして達成するか、その為のお題目修行者である為には何をしなければならないのか愚案を巡らすタイプである様に思われます。

しかし、この事を考え、自分にどうする、どうすると迫れば迫るほど、心が重くなり、体も思う様に動かなくなって、いつの間にか、茫然として立ちすくむ始末です。

しかもこうした目標の達成が、決して一人では可能なものでない事を知れば知る程、自分の器量の小ささや、自分を心底支えてくれる人々との絆(きずな)が極めて薄っぺらなものであることに気付かされて愕然としたりもします。できるだけ多くの縁に触れ、善き友に出会い、悪しき自らの心を戒め、真剣に自分自身と向き合い、そして、苦しみながら自分の身の回りに起こりくる万事をありのままに受け入れ、そして時には、歓喜の涙に咽(むせ)び、時には己のふがいなさに歯ぎしりしてもがき苦しみ、縁ある方々と、互いに磨き磨かれ、その暁に達成されるであろう深き信仰の極みを思うと、その道のりは果てしなきことに今更ながら、身も心も震えるばかりです。

そんな思いを胸にして、両手を合わせ、お釈迦様、日蓮聖人と向かい合うと、いつも決まって、お二人は私の心の奥底をじっと見つめられ、「そなたの日々の一々を、心素直に反省し、明日に向かって、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と懺悔のお題目をお唱えするとよいでしょう」と優しく、ぬくもりのある声をかけてくださいます。

 そして、その度に、私は言い知れぬ感動に、その胸の内を熱くして、法華経の仏様の深き心や、日蓮聖人の深き心を、凡夫の浅知恵で、捏ねくり回して議論するよりも、ただ素直に、そこにあるその心を感じる事のできる、浄らかな心を大事にして、シンプルにお題目を唱えよう、そして我が内にある仏となる為の原糸(もといと)を紡ぎ出していきたいと想うのです。

 それは、老いた阿仏房様が、お祖師様に出会ったとき、理屈ではない感応道交がそこにあったように、そんな素直な心でいたいのです。

 このように、今回の井戸端会議は、こころの奥の思いを素直に綴りました。これこそ、浅はかな心意気かも知れません。がしかしそうして、また明日もトントンと江南の街を歩きたいと思うのです。

 

 

深々と 下げる頭のその中に 傲慢無礼な 我が身ありけり

 

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祖母の言葉

井戸端会議8

 

南無妙法蓮華経

 

私の住む愛知県は、今年は比較的温かな正月で穏やかな日が続きました。と、申しますのは、この尾張地方は昔から、冬になると、滋賀県と岐阜県の県境にある霊峰伊吹山か吹き下ろす伊吹颪(いぶきおろし)が時折雪雲を運んできては雪を積もらせるものでした。子供の頃はこの時々降る珍しい雪が嬉しく、すぐに解けてしまう雪を惜しむ様にでっかい雪だるまを作ったり雪合戦をしたりして遊んだものです。しかし、最近ではその伊吹颪も気候変動により吹かなくなってしまい、よって雪が降り積もる事も少なくなってきました。今年に至ってはまだ一度も積雪はありません。白の雪化粧が見られないのも淋しいものです。

 そんな冬のある日、お正月の家祈祷でお檀家様の家々を回っている時、ある一軒の家のご主人が、入院をされているとの事をお聞きしました。そのご主人は数ヶ月前まではまだお元気で、こんな事を仰っておられました。「ほら、若がいつも、お通夜席なんかでお話しされますね。申し訳ないですけど、私の時は、簡単でいいので、これ読んで頂けますかね。一年ごとに、更新していきますけど・・・」そう言って渡させた一通の手紙がありました。しっかりと封は閉じられ、まだ開いておりません。この手紙を渡された時、人が臨終に真剣に向かい合う姿をかいま見た様な気がしました。だから私も、真剣に向かい合う決意を新たにしたことを思い出しました。

早速その晩、そのご主人が入院されている病院に向かいました。力を無くされたご様子で、起きているのもやっとのお体を、はじめは私に気を使い、腰掛けてお話をされていましたが、途中からは体を倒され、いつもは気丈な振る舞いのそのご主人も遂には、涙を流され、この世を去らなければならない、辛さと、妻を残して先立たなければならない苦しい思いを吐露されました。私は但、その傍らに座り、話を聞くだけが精一杯でした。そんなお話を伺いながら、私の心中は、複雑に揺れ動き供に涙するしかありませんでした。病室を立ち去る際に、生年月日と名前を紙に書いて頂き、翌日から闘病平癒の御祈願を始めました。その祈願を一日一日と続ける内に、私の心中は、複雑な思いで、溢れるようになりました。それは、一体、生老病死とは何なのかというものでした。そして中でも、病むこと、死ぬこととは何なのかという問いが心を離れませんでした。人は生まれれば、沢山の出会いや別れを繰り返しますが、なかでも、冥土へ旅路は、何よりも厳しい現実の問題として、如何なる者でも生きている命の直ぐ側に横たわっています。

 お祖師様は『されば先ず、臨終の事を習いて、後に他事を習うべし』と仰せになられますが、この「臨終の事を習う」とは、一体どのようなものなのか。

 此の様な疑問は、お坊様というお仕事をしていく上で、もう既に何度も、何度も考え思い、三十歳そこそこの年齢で、今思うそれなりの答えを自分の中で見つけていたつもりでした。しかし、この一人のご主人との臨終間際のやり取りを、この世に残される者の一人として、どう捉え、どのようにその臨終に向き合うか、その疑問はここに来て、より一層深まりました。解り得ないであろう、この世を旅立つ人のその心中を人としてどれだけ推し量る事が出来るのかと・・・

 思い倦ねていると、その心中に対する一つの答えに出会うことが出来ました。それは、たまたま、今月の末に結婚を控えた姉が、引っ越しの準備で自分の部屋の荷物を段ボールに詰めている時の事でした。茶封筒に入った丁寧に折り畳んだスーパーの広告を見つけました。広げてみるとそれは、一通の手紙でした。そこには、こんな事が書かれていました。

「友ちゃんがんばって下さい。おばあちゃん、ないてばかり居ました。けどもうなきません。人生は永いのです。色々あります。負けないでつよく生きて下さい。おばあちゃんは、幸福者です。ただ、淋しいだけが、いやです。」

友ちゃんとは私の事です。この手紙は、いつ渡されたのか、当時読んだ記憶もありません。昨年十三回忌を終えた祖母は、時空を超えて、僕の疑問に答えてくれた、そう思うと、涙が溢れ出しました。お茶を飲むにも、珈琲を飲むにも、何をするにもお題目を唱えていた祖母は、私が大学2年の頃この世を去りました。孫もだんだんと大きくなり手を離れていき、自分の臨終を見つめる日々が続いたのでしょう。晩年は、畳の上で朝目覚めたら死んでいたという死に方がいい。世話かけたくない。そんな事を口にしていた祖母は、実際に朝起きてこないまま、布団の中で、静かに死を向かえていました。

 臨終の事、それは一つに、その間際の人の心中にはいいし得ない淋しさが横たわっており、それが涙として溢れ出す、そして、あの病室でご主人が流した涙も、この手紙で、祖母が流した涙も、本当に自らの死を覚悟した者のみが知る、底知れない淋しさからの、涙である事をここに推し量る事が出来ました。

 法華経を信じ、日蓮聖人を信じ、お題目を唱えぬいた祖母が、今ここに蘇り、目の前を照らしてくれました。そう思うと、私の眼からも止めどなく涙が溢れて来ました。法華経信仰の功徳はこうして、未来へとその痕跡残し、繋がる命の生死常夜を、照らす大燈明となり、更なる信じる勇気を与えてくれるものとなりました。そのご主人との今生で残された時間は僅かですが、最後まで寄り添って参りたいと思います。

 

臨終を 向かえし 遠離の悲しみに

ながす涙を 但 淋淋と

 

JURAN

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日本のサンタ

井戸端会議7

 

南無妙法蓮華経

 

今年も昭蓮寺Day`sは、日常の何気ない気づきを綴ります。よろしくお願いします。

 

井戸端会議7

 

 あけましておめでとうございます。本年も井戸端会議をよろしくお願い申し上げます。

 とはいいましても、この原稿を書いているのは年の瀬の心慌ただしい時、相変わらず寝付きの悪い娘を抱きながら片手でのタイピングでしているクリスマスの夜です。

 欧米では、クリスマスはご存知の通り、キリストの誕生を祝う日なでが、実のところはキリストの誕生以前から、昼が最も短く、夜が最も長い冬至の頃を過ぎると太陽が再び高く登る様になるという事から、歴史的には此の季節を祝う風習は世界各地に存在したようです。古代ローマでは、常緑樹を家に飾り、ごちそうを食べて贈り物を贈るというクリスマスの原型と言われる風習があり、現在では、キリスト教がこの古代ローマの祝祭と融合したというのが定説のようです。日本では、おもちゃ等様々な製品を大量生産出来る様になってきた第一次大戦の頃から少しずつ浸透し、1945年、戦後のアメリカ占領下から本格的に普及して今では、すっかり此の国の文化となりました。このクリスマスに関しては賛否両論いろんなご意見はあるようですが、ここでは一つこんなエピソードを紹介したいと思います。

 子供たちにとってクリスマスと言えばサンタクロースですが、私は生まれも育ちもお寺なので、もちろんクリスマスの夜にそっとプレゼントおいていく様な、特別なサンタの存在などはありませんでした。一方、家内の実家には、サンタはいたようで、子供の頃から、年に一回の大イベントだったそうです。12月に入り、クリスマスが近づくと、心の中でどうか今年もサンタが来ます様にと、新聞に挟まるおもちゃ屋の広告を切り抜いては、毎晩寝る前に祈りを捧げ、眠れない夜を過ごしたといいます。そして、翌朝お目当てのおもちゃが枕元においてあるとそれはそれは、有頂天になって喜んだといいます。こうして、小学校3、4年くらいまでは、本当にサンタの存在を信じていたようですが、高学年になるにつれ、その本当のサンタの存在を勘ぐる様になります。とは言っても、巧妙な両親のサンタ作戦に、子供たちが勝てるはずもありません。時には、妹と二人で、必ず此の家のどこかに、今夜のサンタからのプレゼントがあるはずと家中の隠されていそうな場所を探しまわったこともあったそうですが、どこを探しても見つからなかった様です。そんな時は、多分ばぁちゃんちに、隠してあるんだな、といいながらも、その夜は、やっぱりサンタに祈りを捧げるのでした。そんなサンタは中学3年生まで来たそうですが、その頃には、家中を探しまわるなどという事はしません。親がサンタだと分かっているけどそんな事は関係ない、むしろ本当のサンタの存在を但、信じたいと思うまでの境地に達したそうです。ここまでくるとサンタ信仰とまで言えるでしょう。

しかしそんなサンタも、高校生になるとパタリと姿を現さなくなり、その時は一瞬落ち込んだものの、すぐにトイザラスでアルバイトをはじめました。するとそこには、町中のサンタ達が大きなおもちゃを抱えてレジに並び、それに混じって時折、学校の先生も姿もありました。そんなときは、サッとレジの下に隠れ、内線でヘルプを呼んだりし、今度は逆にサンタから身を隠す様になりました。少し余談になりましたが、斯くしてそんな彼女も今では人の子の親になり、立派なサンタになったのでした。

 彼女は言います。あの頃の私は、親がサンタだという事実よりも、信じたいという思いが勝っていた。この気持ちは今生かされている。福島の故郷を離れ、誰も知らない、愛知のお寺に嫁ぎ、右も左も解らない中、夫は娘を一人残し、身延山に言ってしまった。二人ぼっちで暮らしながら、なかなかなじめない土地柄に苦しんだ。そんななか、日々お曼荼羅とお釈迦様にお給仕をしながら、覚えたてのお自我偈とお題目をあげ、いつしか、そんなお釈迦様とお題目や鬼子母神様、法華経のお力を信じたいと思う様になっていたと。

 事実よりも、信じたいという思いが勝る。ここに屁理屈は必要ありません。但、ありがたい気持ちのみが残ります。

お釈迦様「毎自作是念」の誓願は、こうしてあらゆる世法を仏法と識ることのできる、そんな尊い気持ちにさせていただける事ではないでしょうか。

 私たちは常日頃、解ったような振りをしますが、所詮、凡夫の浅知恵です。大切な事は謙虚に、素直に、まじめに、真剣に道を求めようとする、その姿を現していく事です。

 日蓮聖人は、「人久しいといえども、百年には過ぎず、其間の事は、但一睡の夢ぞかし」(『松野殿御返事』)と仰せになられます。惰眠を貪る間にせっかく頂いたお命と法華経に出会えたこの功徳を無駄にはしたくないものです。それは取りも直さず、大信力を起こす事に他なりません。

「夫、仏道に入る根本は信をもて本とす(中略)鈍根第一の須梨槃特は、智慧もなく悟りもなし。只一念の信ありて普明如来と成り給ふ。又迦葉・舎利弗等は無解有信の者なり。仏に授記を蒙りて華光如来・光明如来といはれき。仏説きて云はく『疑ひを生じて信ぜらん者は、即ち当に悪道に堕すべし』等云云。此等は有解無信の者を皆悪道に堕すべしと説き給ひしなり」(『法華題目抄』)

 本年も皆様と俱に、お題目修行に励みたいと思います。

 

三徳の 珠かけ去りぬ 御心を 

 

覚知せずして 散々 苦労す 

 

JYURAN

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南無妙法蓮華経

立正安国、世界平和

脱原発を祈ります。

 

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