· 

仏の子

南無妙法蓮華経

 

4月8日の花まつりは、お釈迦様のお生まれになられた日。

法華経では、お釈迦様と私たち衆生の関係性が説かれる。その関係性とは、一つには、親子関係である。さらには、親であり、師匠であり、主である。

『妙法蓮華経譬喩品第三』

「今此の三界は、皆是、我が有なり、其の中の衆生は悉く、是、吾が子なり

而も、今、この所は諸々の患難多し、唯、我れ一人のみ能く救護をなす」

主・・・「今此の三界は、皆是、我が有なり」

親・・・「其の中の衆生は悉く、是、吾が子なり」

師・・・「唯、我れ一人のみ能く救護をなす」

この主・師・親の三徳を具えた仏は、一切経の中で、法華経のお釈迦様にのみに具わったお徳である。

 

先日、こんな出来事があった。

長男の友朗が江南市の片折先生のところに茶華のお稽古に通うようになった。きっかけは、小学校の担任が産休に入り、先生が4回も代わったことでクラスが少し不安定になり、学校を休みがちになった。石黒家ではよくあることで、さほど心配もしていないものの、煮え切らない様子の息子に母が、

「今日、私、お茶のお稽古行くけど一緒について行く?」

と聞いたところ、

「うん、行く。」

とめずらしく、前向きにその問いに反応した。片折先生の茶室で、お手前の披露で茶杓を構える姿と静かな空間に流れる音に、息子は、一言こんなことを言った。

「お茶って隙がないんだね。」

その感性の良い言葉に驚いた母が、帰り道に、「お茶習う?」と息子に訊ねたところ「うん、やる。」と一言。それから、お稽古に通うようになった。その後暫くして、福島の祖母のご縁を通じて、名古屋にある国の有形文化財の茶室、伯露軒の神谷昇司師匠のところにもお稽古に通うようになり、ついでに長女の加恩も参加するようになった。

月に一回のお稽古のその日、下の双子を連れて茶室に行く。二人のお稽古の間、近くにある公園で双子を遊ばせるのが常になった。あるお稽古の日、いつもの様に、二人を茶室に預け、双子を連れて公園に行った。

公園に行くと、近所の子供達が遊んでいた。その子供達は、お菓子を食べ散らかし、そのゴミをその場に捨てたまま遊んでいた。その様子を見ていた、家内は、そのゴミを落ちていたビニール袋に入れて、ゴミ捨てた子の荷物の置いてあるベンチにそっと置いて帰ってきた。

それから数日後、夜のこと、息子の浮かない顔に何かあったのか、母が訊くとこんなことを話してくれたのだ。

その日はお寺の永代経で、私も家内も忙しくしていた。

家の前で遊んでいた息子は、近所の中一の男の子と合流して一緒に遊ぶことになった。暫くして、その男の子は、近くのドラッグストアーでお菓子を買いに行き、その後、公園に行くことになり、息子も一緒に公園に行くことになった。

そして、その男の子は、公園でお菓子を食べて、そのゴミをその場に散らかして帰って行ってしまった。その様子を見ていた息子は、ゴミを拾ってビニール袋に詰めて、その子の家に行きインターホンを鳴らした。家の中からは、その子の妹が出てきて、息子は、これお兄ちゃんの忘れもんだよと、そのゴミの入った袋を手渡した。息子が家に帰って暫くしたら、インターホンがなり、外に出るとその男の子が立っていた。

「俺が買ったお菓子のゴミを、俺がどうしようと、俺の勝手だろう。妹に渡すんじゃね。」

と言って帰って行ったそうだ。

と、そんな話をしてくれたそうだ。

その時の母の思いは、とても不思議な感覚だったという。数日前に、私がしたことと同じことを息子がした。しかも、茶室でお稽古をしていた息子は、私のその行動を見ていない。そんなに口うるさく、ゴミを拾いなさいと躾した覚えもない。

それでも、親子は見えなくても繋がっているのだと、不思議に感じたと同時に、いい子に育っているなとありがたくも思ったという。

 

この話を聞いて、私は想った。

親と子は、密接に繋がり合っている。

親の背中を知らず知らずのうちに見て育つのか、あるいは、DNA中に組み込まれた、血の中に流れる性質はここまで遺伝するのか。何れにしても、親子の関係性の深さを物語る出来事に私も考えさせられた。

そして、大きくそのイメージを膨らませてみる。

先に記した様に、お釈迦様と私たちは、親子の関係であると説かれる。

このお釈迦様のDNAが私たちの血の中に流れている。それを佛性という。

そのことが真実であり妙法である。だが、そのことを知るきっかけがなさすぎる。だから、気づくこともできないし、信じることができない。

そして、現代人は、仏教の説くところの世界観から、あまりにも遠くに来すぎてしまった。

自らの心の中の佛性にある佛の種を炒ってしまっている。

 

譬えば、大きな会社がある、その会社は、社長が一生懸命努力をして、そこまでに成長をさせた。その会社を継ぐのは、もちろんその社長の子供である。その子供は、親の築いた会社を子供と言うだけで、すっぽりと丸ごと頂くことができる。

しかし、その子供は、自分の出来の悪さに、ニヒリズムに陥り、まさか、本当にこの親は私の親であろうか?と疑うようになる。さらには本当にこんな大きな会社を継ぐ資格が自分にあるのだろうか?と自らを疑う様になったとしよう。

それでは、到底この会社を継ぐことはできない。その大きな会社を継ぐだけの自信と器を育まなければならない。本当に、自分はこの会社の社長の子であり、この会社を継ぐ資格が自分にあるのだと、信じることができなければその会社を継ぐことはできない。たとえ継ぐことができたとしても、信念なくして継続させることはできない。

さらにもっと分かりやすく言えば、地球という大きな船の船長であるお釈迦様は、その船で働く70億の人々の一挙手一投足を余すことなく見つめていらっしゃる。

佛道を歩いている人も、歩こうとしている人も、はたまた、歩んでいない人も、その目の前に、種々の因縁や方便を使って、船長の子であると気づかせ信じさせようとしている。

お釈迦様と私たちが、親と子の関係であると心素直に信じることで、お釈迦様の御修行とその結果に得たお覚りのお徳をすっぽりと頂くことができるという、そういう仕組みになっている。

そう気づき信じる為には、炒った種を植え直さなければならない。その種が妙法蓮華経の五文字であり、植え直すとは、妙法蓮華経に帰依する一念を南無妙法蓮華経と念じ唱えるのである。

その一念は瞬く間に大宇宙の果てまで届く。

我が一念を如何様に持って如何様に念じて生きるか。

その一念のほんの僅かにも、戦争を肯定する一念があれば、それもまた現実の世にお釈迦様の説法として禍い起こってくることだろう。

しかし、悪は多けれども、一善に勝つことなし。との日蓮聖人のお言葉の如く、人殺しの戦争がなくなり、世界が本当に平和になることを願う一念には、如何なる悪も敵わないだろう。

南無妙法蓮華経

立正安国、世界平和

脱原発を祈ります。

 

〠483-8239

愛知県江南市木賀本郷町西152

電話:0587-55-2404