昭蓮寺Day`s21

臨終の事の習い

 

南無妙法蓮華経

 

 

 十一月十二日、旧暦の十月十三日、当山お会式の晩、子と孫に見護られながら、「出ずる息は入る息を待つことなし」とのお言葉の如くその相を顕し、当に「臨終の事」を教示し、お題目の唱えられる中静かに師父が息を引き取った。師父、妙誠院日達上人、その命終までの一端を綴る。

 

『晴天の霹靂』

 師父が肺炎で入院したのは昨年九月十五日のことだった。時を同じくして、境内に繁る枝垂れ桜の太い枝が根元から折れた。翌日、本堂に一匹の鳥が舞い込んで来て堂内を二周半飛んで外へ飛び立った。その翌日には、祖師堂の大屋根の瓦が落ち、秋霖の雨にポツリポツリとタライに落ちる雨音が静かな堂内に響いた。この瑞相が、如何なる意味を持つのか。師父と重ねた。

 師父が、入院してすぐ、肺のレントゲン写真を見た医師から「胃に影がある」と告げられ、その二日後、胃カメラにて、胃を検査した。診断の結果は、末期の胃ガンであった。二人に一人が癌になると言われる昨今だが、今まで一度も大病をしたことの無い師父がまさか癌に侵されるとは、当に青天の霹靂とはこのことであった。その事を母から涙ながらに伝えられたその日から、何をしていても涙が止まらなくなった。天が落ちてきた様な悲しみに、朝のお勤めも、声が詰まってお勤めにならない。後から後から、悲しみが、腹の底から、止めど無く泉の様に涌き上がってきて、止まる事を知らない。止めど無い悲しみと同時に、今までの師父に対する不孝の全てが津波の様に押し寄せきた。何故にこんなにも悲しいのか、その事を考えた。あたりまえの様にそこにいた人が目の前から居なくなるということ。そのことがあまりにも寂しく思えた。一週間後、肺炎が治り一時退院となった師父に、意を決して、今迄の全てを詫びた。心が少し楽になって、悲しみの波が少し和らいだ。今まで、何をあんなにもいちいち拘っていたのだろうと思えた。

 次の正式な検査結果までの間、毎日、暇さえあれば、癌に関するサイトを開いて、手立てを模索した。食事療法に免疫療法、更には漢方や、末期ガンから復活したという多くの人のブログやホームページを寝ずに読んだ。そしてできる限りの民間療法の多くを試すものの、坂道を少しずつ、速度を速めながら転がる様に師父の様態は悪くなっていった。検査結果の出る十月の三日頃に至っては、既に、食事もあまり喉を通らなくなっていた。そして、検査結果を聞くまでもなく、即再入院となった。それから三日後、主治医と面会をした。胃カメラの画像と、CTの画像とレントゲンを見て、何も知らない素人の私にも、その画は一目瞭然で、現実を突きつけられた。何としてでも復活させたいとの思いで抱いていた淡い幻想が虚しく思え、また涙が頬を伝った。手術もできなければ、抗がん剤も出来ないほど、体力も衰え栄養失調になっていた。余命は長くて三ヶ月。それでも、諦めきれない自分と家族の複雑な思いの渦の中で、親子として、師匠と弟子として、その残された時間に、私は何を成すべきかを模索し始めた。互いに口にすることを憚かる様な言葉を捨て身で放った。

 私・「お上人、何処で死にたい・・・?」

 師父・「そりゃ、お寺だわな・・・」

 私・「わかった、お寺に帰れる様に準備するよ・・・」

 そして、ソウシャルワーカーの方に相談をし、在宅で看取れる様、準備を始めた。

 

 

『一筋の光明』

 その数日後、不思議な事が起きた。十月十三日、御聖日の朝、一通のメールが届いた。それは、次の様な内容だった。

 「私の母のことで相談いたします。私の母は五十年近く、創価学会を通じて日蓮正宗を信心してまいりました。創価学会の活動などには参加しておりませんが、ご本尊の前で毎日欠かさず朝晩お経を唱えることが母の心の支えとなっています。しかし、創価学会が二十年以上前に日蓮正宗から破門になったことを、母は最近になって知りました。そのため、創価学会から脱会し、日蓮宗へ改宗したいと言っています。母が申すには、四十年以上前に住職と江南市役所で出会ったことがあり、母はそれからずっと相談しに行きたいと思っていたそうです。一度母の話を聞いていただきたいのですが、お寺へ伺ってもよろしいでしょうか?」

 それは、死を目前に、一筋の光明となった。四十年前に、植えた一粒の仏種が、臨終間際に芽を出した。お題目の光明に照らされて、そこに映しだされた本有の尊形に、止めどなく涙が溢れた。そのことを師父に伝えた。お上人の生き方、間違ってなかった。数ではない、只、一粒の種が救いをもたらした。

 十八日にお寺で、四十余年ぶりの再会を果たすべく十七日に師父は退院した。再会を果たした二人は、当時を思い出し、会話を弾ませた。その会話から「釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候」とのお言葉が心に浮かんだ。何気ない会話と、そこにある何気ない言葉の中にも、仏種は宿る。そう信じて生きることが大切であると学ぶ事ができた。

 縦にも横にも無数に広がる果てしない、縁とそこに織り成される方便の中で僕らは生きる。その遥か昔からの佛縁の一端の結実を見ることができたことを、誠にありがたく思った。

 その後、幾人かの人が、お寺で療養する師父の元を訪れた。そのどれをとってみても、その深き縁と、人と人が、数十年に渡って築き上げてきた強い信頼関係と絆を感じることができた。

 

 

『弔い人の出立点』

 人は一生の間、生まれ持った自らの業と向き合いながら、決して変えられないその人間の本質に翻弄されながら、多くの苦難を乗り超えて、結局最後は、ありのままの自分の姿に立ち返り、そのお役目を全うする。全ての生きとし生けるものは、皆その様にある。あまりにも辛く苦しい困難に出会った時、こんなはずではなかったと思う時もあるだろう。しかし、法華経とお題目には、その困難こそありがたい、困難にこそ法華経とお釈迦さまの御教えであると思わせていただける功徳力が具足する。

 妙とは開なり。

 カッと眼の玉を見開いて、真に生死に向かう時、本時の自分に出会い、これで良かった、生きてるだけで御の字と思えるありのままの命に出会うことができる。それが、お題目様の姿であると、ここに一まず思うことができた。

 『人久しいと雖も百年には過ぎず、その間の事は只、一睡の夢ぞかし』とお祖師様は申される。この世の因果の道理からは、逃れる事はできない。生まれ落ちたその日から、死の保証書を懐に、種々の因縁、種々の譬喩をもって、その命の燈の消えゆくその日まで、三世に渡って網の目の様に果てしなく繋がる縁の中、右往左往しながら執著を離れる日まで進むのである。師父の死によって自らの生に初めて本気で向き合う事ができた。そして、生死狭間に生きる事が凡そ方便であり、それに依って全ては、妙経教示の一刹一塵であると心中深奥に刻む事ができるのだと思えた。僧を志し僅か十年、未熟な自分なりに生死と向き合ってきたつもりであったが、師父の死に「まず、臨終のことを習うて後に他事を習うべし。」のお言葉がこれほどまでに、心に突き刺さった事はない。これでやっと、渡世坊主のお仕事である「弔い人」としての御役目を果たす為の出立点に立つ事ができた様な気がする。

 

 秋霽の 枯れゆく蓮の頭垂れ 実る仏種の久遠成りけり 

 

                            妙恩日艸

 

南無妙法蓮華経

立正安国、世界平和

脱原発を祈ります。

 

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