昭蓮寺Day`s22

南無妙法蓮華経

 

妙法五字の受持と経済の諸問題

 

ミルトン・フリードマンによる新自由主義経済の蔓延は、あのベトナム戦争の60年代より、更にその加速度を増して、全世界をその毒が覆い尽くした。

長い鎖国を経て文明開化から始まった資本主義の波に乗り遅れた日本は、そのあまりにも大きな波の渦の中に、すっかりと飲み込まれた。そして、あっという間に、その波間に泡立った、バブルの中に我を失い、泡沫に享楽し、バブルが弾けそして、悪夢を見た。その泡沫は幻想に変わり、人口減少という現実から目を背け、有りえもしない経済成長という名の下に、新たな妄想と悪夢を追い求め、奈落の底を目指して更に加速度を増したように弾けはじめた。

 その歪みとそこから生まれた妄想と悪夢は大量の国債と大量の借金となって淀みに溜まった。金儲け至上主義の波はいつしか飽和し、デフレの大津波として押し寄せてきた。そして、その物質飽和状態から新たな兵器を生み、宗教的思想やイデオロギーやナショナリズムを逆手に取り、金儲け一点の軍需産業という鬼神を生み出した。

 その軍需産業が生み出した殺戮とその屍の山は無数の怨霊を生んだ。

そして、決してそこにと止まることもできない諸行無上の因果の波に逆らい、なんとしてもそこに留まろうと、見えざる手をあの手この手で掴みとろうと、金融緩和を重ねに重ね、遂にその道さえ閉ざされようとしている。

 悪夢を悪夢と思うこともせず、妄想と幻想の酒に酔い今なお悪夢を追い求め、一体全体、人類はどこへ向かおうとしているのか。当に、一闡提の怨霊の増幅は、止まる事を知らない。

 

あらゆる命も、この丸い地球に生まれ落ちた時、もう既に、すっかりと満足している。それを一大事の因縁という。その一大事の因縁である、仏種の開発こそ生きる命の目的である。

紛れもなく我身は、本仏釈尊と同体であり、その我身中の本仏の誓いと願いに今こそ、その耳を方向けなければならない。我己心中に久遠に広がる本仏の誓願と十界互具と一念三千の大曼荼羅の大宇宙に生かされている事を受け止めなければならない。その事がこの娑婆に生まれたそのただ一つの目的であり、成仏を目指す為にだけ、命は存在する事に気づく道である。その命の目的を、心素直に、ありのままに、すっぽりと丸ごと受け入れる道に出会う為のその道のりは、無数に広がる縁と、分かれ道の連続である。

その険しい道のりを、苦しみは苦しものまま、楽しみは楽しみのまま、すべて真正面から受け入れる道が仏道であり、妙法五字を受け持ち、信じ唱えていく道である。

そこに、我、己心中の本化の四菩薩は、手を取り、まろぶその身をお支え下さるのである。

 そう信じ歩む仏道の一歩は、ただそこに既にある成仏という無上の道へ至る道でり、本当に全て正解で、何の誤りもないその道である。

 

人はこの世に、過去生の懺悔と、未来世の誓いと願いを持って生まれ落ちる。その魂魄に誓願した、その人にしか待ちえない、誠に尊いオリジナルで、唯一無二のその命の歩む、たった一つのその道を、もう既に、一寸の狂いも無く歩んでいるにも関わらず、様々な欲望と目と耳と鼻と舌と身と意に、瞬時に飛び込んでくる、あまりにも多くの多角的情報に、心奪われ、右往左往してその道を見失うのである。

 六根の情報とそこに生まれる煩悩のノイズの中に生きながら、自らの使命を見失わないように生きるにはどうしたらよいのか。

それが、「いのり」である。それも、金持ちになりたいとか、病気が治るとか、争いがなくなるとか、現世の願望を叶える為の「いのり」ではない。

 更には、この目を背け、うんざりする様な苦しみ多き現実から、何としても抜け出したい、神様仏様、この救われようのない苦しみからどうか楽にして下さい。と祈る「いのり」でもない。

 法華経の「いのり」は、貧乏は貧乏のまま、病気は病気のまま、争いは争いのまま、その如何にも、享楽を求める人間の価値を超えた、諸仏の真の願いに出会う「いのり」である。

決して、幸福を製造するような「いのり」であってはならない。

決して、現実から目を背け、後生の浄土を祈る「いのり」ではあってはならない。

ただ一人瞑想し、仏語に耳を傾けず、静かに単座する事が仏道ではない。

火を焚き、敵を調伏する「いのり」であってはならない。

無戒の末法に於いて、戒律犯さず如何にも聖人の様に生きる事が仏道ではない。

 

 寺院消滅。墓、寺、檀家の三離れが、進めば進むほど、その法華経の「いのり」と自らのお題目の信仰の真の価値を問われる時となる。

 今こそ、真の法華経信仰と真のお題目信心が問われる時である。

 アマゾン坊主でも、タレント坊主でも、なんでもやればいい。

 屍の肉で、我が身を養い、家族を養い、その命の上に、今の私の命があるのだと、小さな額を畳に擦り付け礼拝し、そして、風の前の塵ほどの懺悔の思いを抱き、それも仏と真に受け入れることができたなら、その命の向かう先には、世界の抱える戦争と核兵器と環境破壊と温暖化と貧困と、、、それら、個を超えたより大きな共同体の抱える苦しみを我が如く感ずることのできるはずである。それが「立正安国」の精神である。核兵器も原発も放射能の問題も、沖縄の基地の問題も、全部そのまま、「立正安国」の祈りに繋がるその「度すべき所に随う」種種の法である。

未だ、放射能のまみれた福島の土に帰ることのできない、避難民。

高濃度に汚染された通学路。

人殺しの道具の生産と販売。大事故を起こしたにも関わらず、国外への原発輸出と上関への新設推進と再稼働。

人殺しの稽古場を作る為の、かけがえのない沖縄の自然環境破壊。憲法を違反してまで推し進める戦争ができるようにする法。

すべて、いのちを軽ろんじ、蔑ろにする国政である。

その全てを、唱題への原動力としなければならない。

その国政を諌める精神なくしては、「いのちに合掌」の横断幕も虚しいものとなり、「立正安国」の日蓮聖人の仏法の精神もまた虚しく、根無し草の波状に浮かべるに似るべきものとなるであろう。

 

 70年前、戦争をして、原爆まで落とされて、それでも、悪夢を悪夢と思うことができないまでに、無明の酒に酔い潰れて、我を失い、その忘我の先にある世界は、果たして如何なる闇黒の世界か。

闇が深くなればこそ、そこに輝く一つの光明はより鮮明になり、闇に迷う衆生は、そのわずかな光を追い求めて、漆黒の闇の恐怖から逃れたいと藁をも縋る思いで、その光に集まるであろう。

その光が消えぬよう、せっせ、せっせと薪を焚べるのが私たち、法華のお坊様のお仕事。

お題目をお唱えし、生死に向き合い、久遠の釈尊の本願に立つことができたなら、それこそこの上ない喜びである。

そこに、妙法五字の光明に照らされて、本有の尊形は顕れるのである。

 

あんこくの 世に正法を得たりしと 我御仏は 歓喜せるなり

 

                              妙恩日艸

 

 

南無妙法蓮華経

立正安国、世界平和

脱原発を祈ります。

 

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