昭蓮寺Day's15

井戸端会議15

 猛暑のある日、いつもの様に、お太鼓をトントン撃ちながら行脚に出かけました。その日の月参りを一軒終え、その道すがら、そこを通ると必ず立ち寄る、とある一人暮らしのおばあさん様子を伺おうと、少し遠回りではあったものの、歩くコースを変え、滝の様に流れる汗を拭いながら歩いておりました。信号を越え、道を渡ればそのおばあさんの家だという地点にさしかかったその時、帽子を深々と被り、手押し車を押しながら向こうから歩いてくる老人に出会いました。私が気付くよりも先に、「こんにちは」、と声をかけられ、よく見るとそれは、これから訪ねようとした、おばあさんその人でした。「ちょうど今おばあさん家に行こうと思っていた所でした。お元気でしたか?」と二言三言挨拶をかわしながら、先日送られてきた、この井戸端会議の最新版を頭陀袋から取り出しおばあさんに手渡しました。それを受け取る手は、なんだかおぼつかなく、「だいじょうぶですか?」と訊ねると、「う〜ん、少し暑気にあたったようでね・・・」とあまり元気の無い様子でしたので、私は、すこし心配になり、玄関までお送り届ける事にしました。おばあさんは、家の鍵をさすこともやっと様子で、ドアを開け玄関に腰掛けるなり、そのまま後ろにばったりと倒れてしまわれました。私は、びっくりして、「大丈夫ですかぁ!」と声をかけながら、おばあさんをよく見ると、顔色は優れず、珠の様な冷や汗を流し、目もうつろの様子でした。私はすぐに、なり振り構わずに台所に向かい飲み物を探しました。

 そこには、ちょうど麦茶が冷やしてあり、すかさず、近くにあったコップに注ぎ、おばあさんに飲ませました。そして、そこにあったタオルを水で冷やし、おばあさんの頭にのせました。そして、暫く様子を見ていましたが、一向に起き上がれそうにないおばあさんを見て、これは、早く救急車を呼ばないと、取り返しのつかない事になるかもしれないと思った私は、「おばあさんに「救急車呼びますよ!」と伝えるました。するとおばあさんは「救急車は、近所に迷惑だから呼ばないで欲しい」といいます。その言葉に一瞬怯んだ私は、「じゃぁ、お嫁さんの電話番号解りますか?」と訊ね、言われるままに、電話器の下から手書きの電話帳を取り出し、夢中で電話をしました。数回かけ直すも、応答がありません。愈々、このままでは本当に危ういと判断した私は、おばあさんにかまわず、「もう、そんなこと言っていても仕方が無いので、救急車よびますよ!」と念を押して、119番しました。間もなく、救急車は到着し、おばあさんは病院に運ばれ、その後、息子さんと連絡がつきその一部始終をお伝えしました。

 おばあさんは、病院で適切な処置を行ってもらい、自宅へ戻られました。数日後、わざわざ、お嫁さんと一緒にお礼にお越しになられました。おばあさんは、「今こうして生かさせて頂いている事が本当に嬉しいです。本当にありがとうございました。」と何度も何度も、頭を下げて帰っていかれたそうです。私もそれを聞いて一安心を致しました。暑い熱い夏の日の出来事です。

 

大袈裟かも知れませんが、今この様にして、命が紡がれているのは、本当に奇跡の様な事で、そのおばあさんとの交差点での出会いも、あとほんの僅か、私の歩みが速かったり、もしくは、先に月参りで訊ねた、家の方とのお話をあと数分早く終えていたのなら、私は、そこでそのおばあさんに出会う事はありませんでした。ピンポンを押して、留守なら、何のためらいも無く私はそこを通り過ぎていたことでしょう。

 

この出来事を通して、改めて、命の大切さと、私自身が生かされている、有り難さを実感させて頂く事が出来ました。そして、何よりも、おばあさんが無事だった事が、大きな喜びであり、ただ生きていて下さっただけで、その存在が何とも有り難く涙が出てきたのでありました。

 

このできごとから、先月号から少しふれている、岸見一郎氏の著作『嫌われる勇気』の中にあった「存在しているだけで価値がある」という言葉を思い出しました。それはこんな言葉でした。

『他者を「行為」のレベルではなく「存在」のレベルでみていきましょう。他者が「何をしたか」で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです。』 

 これは、とても奥深い言葉となって私の胸に刺さりました。先月号で私は、「如何なる者も、今現在の行いによって仏になる事が出来る、それが、この法華経の教えです。」と申しました。しかし、先に記しました、おばあさんとの出会いによってその事を更に深め、改めて考えることができました。

 行いによってのみ、仏になる事が出来るとするならば、おばあさんを懐抱した私のみが仏になる事になり、懐抱される側は、仏になる事ができないのか?という事になります。そんなことはありません。私の行為も、そこに存在していたおばあさんの存在も、この出来事を経験して等しく互いに命の有り難さを感じる事が出来ました。その命の尊さを実感することが仏になる事の一つだとするならば、それは間違いなく、私とおばあさんの心に深く刻まれた成仏の証となることでしょう。

 ついつい、人は、自分の行いも他人の行いも、善い、悪い、優れている、劣っていると評価して、ジャッジメントしがちであります。アドラーは、「他者を見る時、理想像としての100点満点から引き算をしていくのではなく、「ゼロ」の地点から出発する。そうすれば、「存在」そのものに声をかける事が出来るはずである。」というのです。

 存在そのものを受け入れることから始まり、そこから、自分自身が他に対して何が出来るのかを考える。ありのままの自分を受け入れ、他者を信頼し、他者へ貢献していく。その為に必要な条件として、アドラーは、一念三千に通ずる、「共同体感覚」という概念を提唱しています。

彼は、人が生きていく上での悩みは全て対人関係に由来し、その対人関係におけるあらゆる悩みの解決は、他者を仲間だと見なし、そこにこそ「自分の居場所がある」と感ずる事であると言うのです。  

 驚くべき事に、アドラーの述べる共同体感覚とは、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、たとえば、国家や人類等などの全てが含まれ、時間軸においては過去から未来までも含まれ、更には動植物や無生物までも含まれるとするのです。つまり、単なる既存の枠組みを超えた、過去から未来、そして宇宙全体までも含んだ、文字通りの「すべて」が共同体なのだ、と提唱しているのです。言うなれば、存在しているものすべてが、仲間であり、自分はその一部分であるという事なのです。

 この感覚を身につける事が出来れば、より大きな枠組みの中で、自分を受け入れ、他を信頼し、いのちあるもの互いに貢献しあえることでしょう。そして、世界全体がその様に考えられる事が出来れば、世界は平和になるにちがいありません。今回は、著書『嫌われる勇気』について、その一部を紹介しました。あえて、タイトルに言及しなかったのは、興味を抱いて是非読んで貰いたいとの思いからです。法華経の信奉者には、この世の全てが釈尊からのメッセージとなることでしょう。

 

雨樋を 流れる水の音までも 妙のみのりの 響きなりけり

 

JURAN

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