昭蓮寺Day's14

南無妙法蓮華経

 

井戸端会議14

6月30日、首相官邸前には、翌日の安倍政権の集団的自衛権の行使容認の閣議決定を前に、それに反対する4万人もの人々で溢れかえりました。集団的自衛権とは、ご存知の通り、自衛隊が同盟国アメリカと一緒に、他国に対して武力行使をする事です。国は、一九五四年の自衛隊発足以来、日本が攻められたときに限り行使できる個別的自衛権を認めてきました。今回は、その枠組みを越えて、幾つかの要件を満たせば、日本が他国から攻撃をされた時のみならず、日本と密接な関係にある他国への武力行使があった場合も、そこに自衛隊が出かけて行って人を殺してもよい、という憲法解釈をする事が閣議決定されたのです。68年前、敗戦亡国した日本は、二つの原爆を投下され、何千何万の人々が殺し殺され、もう戦争には、こりごりしたはずでした。一つには、そんな日本人の心のどこかに、戦争に負けて悔しい思いをした、その反省せざる幽恨の想いが潜んでいてその思いの現れとなったのでしょうか。ともかく、戦争に一歩踏み出した事は間違いないようであります。しかしながら、国家も個人も、多かれ少なかれ、様々な過去のトラウマのようなものを抱えて生きているようであります。

 

このトラウマ(trauma)とは、有名な心理学者、フロイトが『精神分析入門』に於いて発表した言葉で過去の強い心の傷の事をいいます。人は、この過去のトラウマによって、今の自分の心のあり方や、生き方が決定されるとしたものです。この考えに違を唱えた心理学者に「アルフレッド・アドラー」がいます。アマゾンの2014年の上半期和書総合部門の第一位に輝き33万部を売り上げた作品『嫌われる勇気』は、この心理学を岸見一郎氏と古賀史健氏が「青年」と「哲人」に扮して解りやすく描いたものです。日本では、フロイト、ユングという心理学者は有名ですが、このアドラーは、初めて耳にした方も多いのではないでしょうか。実は私もその一人でした。

そんなある日、ある事がきっかけで、母と口論になり憤慨しながら家をでました。途中、本屋に寄る用があったので、立ち寄るとそのアドラーの本が目に止まりました。『アルフレッド・アドラー・人生に革命が起きる・100の言葉』この赤く光ったハードカバーを手にし、どんな事が書いてあるのだろうと、ふっと本を開くと、そこにはこんな事が書かれていました。

 

子供は「感情」でしか大人を支配できない。大人になってからも感情を使って人を動かそうとするのは幼稚である。

 

数分前、母との意見の違いに感情を露(あらわ)にした自分を恥ずかしく思うと同時に、迷わずその本を握りしめレジに並んでいました。この本も実に興味深い内容でしたが、『嫌われる勇気』はそれを超える驚きに満ちたものでした。

特に、トラウマについての青年と哲人の問答は、先日、自坊にて進藤先生にご講義頂いた「本因本果の法門」と妙にシンクロし、私の頭の中を駆け巡りました。

そこには次の様に書かれていました。

 

哲人・あまねく人の「現在」が、「過去」の出来事によって規定されるのだとすれば、おかしな事になりませんか?だってそうでしょう、両親から虐待を受けて育った人は、全てがご友人と同じ結果に、すなわち引きこもりになっていないとつじつまが合わない。過去が現在を規定する、原因が結果を支配するとは、そういうことでしょう。

青年・・・・なにをおっしゃりたいのですか?

哲人・過去の原因ばかりに目を向け、原因だけで物事を説明しようとすると、話はおのずと「決定論」に行き着きます。すなわち、我々の現在、そして未来は、すべて過去の出来事によって決定済みであり、動かしようのないものである、と。違います?

青年・では過去など関係ないと?

哲人・ええ、それがアドラー心理学の立場です。(中略)

哲人・アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、今の「目的」を考えます。

ご友人は「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で、「外に出たくないから、不安という感情を作り出している」と考えるのです。

つまり、ご友人には、「外に出ない」という目的が先にあって、その目的を達成する手段として、不安や恐怖といった感情をこしらえているのです。(中略)

青年・ありえません!そんな議論はオカルトです!

哲人・違います。これは「原因論」と「目的論」の違いです。あなたのおっしゃる話は、すべて原因論に基づいています。我々は原因論の住人であり続ける限り、一歩も前には進めません。

さらに、「自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自ら目的を決定するのである。」というのです。

これは、『開目抄』に説かれる「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる。
四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打ちやぶて、本門十界の因果をとき顕わす。此れ本因本果の法門なり。
九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」との法門に通ずるものです。

 

(法華経の如来寿量品の本門に至って、釈尊はたまたまブッダガヤの菩提樹の下で覚りを開いたのではないことが明らかにされれば、釈尊の教えは蔵教(ぞうきよう)・通教(つうぎよう)・別教(べつきよう)・円教(えんぎよう)という四つの教えの中に集約されると理解してきたことが、表面的な教えであることがはっきりし、それらの四教による限りでは釈尊の覚(さと)りを示すには充分でないことが明確にされ、それによって、四教が示した覚りに至る修行の道筋も否定されることになる。

こうして、法華経の以前に説かれた諸経典や法華経の迹門に説かれた「十界の因果」は充分に確立していないとし、仏界の確立を中心とする「本門の十界の因果」が説き明かされた。これがすなわち本因(ほんいん)・本果(ほんが )の教えである。ここにおいて地獄界から菩薩界に至る九界は「無始の仏界」(永遠なる仏界)に包まれ、仏界も「無始の九界」(永遠の衆生)の中におのずから備わっている救済の様相が示され、真実の十界互具・百界千如・一念三千が明らかにされるに至ったのである。)「全集」

 

もし、過去に積み上げたカルマ(業)によってその人の現在が決定づけられるとする(因果論)ならば、悪業の因縁によって人は仏になる事は出来ないことになります。

如何なる者も、今現在の行いによって仏になる事ができる、それがこの法華経の教えです。

過去に支配されない生き方を目指す、アドラーの「目的論」は過去の経験にどのように意味付けし、今現在どのような目的をもって生きるか、人間の無限の可能性を信じ「人は変われる」という事を前提に考えた、まさに「人は誰でも必ず仏になることができる」と説く法華経の教えと重なると深く感激しました。(つづく)

 

薫風に 

棚引く御旗の 

その下で

天鼓トントン 

世界平和

 

鷲嵐学林
じゅらんCO

http://jurancop21.net/


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